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【小説集】

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自作の小説をまとめています。おやすみ前のひと時に読んでもらえたら嬉しいです。
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記事一覧

短編小説 『諸悪』

 蜘蛛は観ていた。天井から一本の細い糸を垂らした蜘蛛が。  西陽に照らされた少年の顔を、ジッと観ていた。  少年もまた、見ていた。  黒光りする太い梁に渡した一本の荒縄が。母親の首に隙間なくギリリと食い込む様や、かすかにユウラリと揺れる母親の全身を、ジッと見ていた。  口元からはブクブクと泡を吐き出し、端からはツーッと細い糸のような赤い血が流れていた。宙に浮く、ダラリと垂れ下がった素足の先から雫がポタポタと滴る。それは色褪せた畳の上でじんわりと手のひらほどのシミを作っていた。

【掌編小説】 『さくら』

 母が心臓の病気になって手術を受けた。  父が僕たちの元からいなくなって十年、ずっと働き通しだった母。どんなに朝から晩まで働いていても「大丈夫」としか言わない、そんな母が何週間も病院のベッドに横になっている。  母が働くのはほとんど僕のためだ。地元で有名な進学校に何不自由なく通わせるため。二年後には大学にだって行けるようにさせるため。自分のことはいつだって二の次で、僕のことをとにかく母は優先させた。 『大学なんて行きたくない。先が見えない、自信がない。母さんのために何かしたい

【小説】 もうひとりのロストマン

*作者註:この物語は、以下の小説の①から④(終話)を読んだあとに紐解かれることをお勧め致します。  『夢屋書房』店主・渡辺誠一は読んでいた本をパタリと閉じると、左腕の時計に目を落とした。あの青年が店を出てからきっかり三十分。誠一はカウンターから出るとそのまま店の出入り口へと向かい、引き戸を開けた。  顔を外へ出してから、左右を見渡す。  相変わらずの、閑散とした駅前商店街の錆びた色彩が広がるだけ。まだ夕暮れ時には二、三時間はあると言うのに、誠一はいそいそと店じまいを始めた。

【小説】 ロストマン 終話

 前回はこちらから 「──で?そっからどーなったわけよ」  問われて我に返った康介は、投げつけられた声をたどって視線を泳がせた。つり目がちな女の目が康介に向けられていた。  ほんのりと頬を桜色に染めた川嶋瑞穂が、ビールの入ったコップを握りながら焼き鳥の串を口に運んでいる。  康介は少し慌てて記憶を呼び戻そうと頭を働かせた。久しぶりのアルコールにだいぶあてられているようでうまく繋がらない。 「しっかりしろー。いとしのトモミンにフラれて意気消沈の皆川クンでしたが、なんだか雰囲

【小説】 ロストマン ③

前回はこちらから    こうちゃんへ  おはよう。  ほんとはもっと早くに伝えなきゃいけなかったんだけど、タイミングが分からなくて、ギリギリになってしまったこと、謝ります。ごめんなさい。昨日の夜も結局言えなくて。便せんに、汚い字でごめんね。  一ヶ月後、九州の支店に転勤になりました。入社してすぐに会社から相談されてて、でも私はこうちゃんと離れたくなかったから断っていて。会社もかなり困っているみたいで、ずっと転勤の話をされ続けていたんだ。  きっかけは、きっとこうちゃんの

【小説】 ロストマン ②

前回はこちらから    日が暮れたあとの誰もいない公園のベンチに康介は腰を下ろした。隣接するマンションの各家庭から漂う夕食の香りが鼻口をくすぐった。幸せそうな香りだった。  ハーフパンツのポケットからスマホを取り出すと、電話帳を起動させてスライドしていく。ダラダラと眺め続けて数十秒、康介の目に一つの名前が止まった。結局のところ自分はここを目掛けて指を動かしていたことに気がついて、内心で苦笑った。  川嶋瑞穂。  康介の二つ上の先輩で、大学を卒業するとフリーのイラストレー

【小説】 ロストマン ①

 彼女のどこが好きなのかと問われたら、迷わず「全部」と答える。  皆川康介にとって、真中智美は単純明快な愛情を注ぐパートナーだった。『恋人以上の存在』と言葉にしてしまうのもなにか違っているような。 「康介がもっとしっかりして智美を支えてあげないと、逃げられちゃうよ」  一体誰に言われた言葉だっただろう。似たようなことを様々な人間に言われすぎたせいか、康介にはもう咄嗟にその誰かの顔を思い浮かべることができなくなっていた。男とも女ともつかない声が頭の中にこだまする。  暑い

【短編小説】 春風

   祖父は日本国民なら誰もが知る、"超"が付くほど有名な小説家だった。  彼が最も多く手がけた作品のジャンルが、歴史小説だ。その作風は一貫して「緻密かつ大胆」で、その道の先陣を切って駆け抜け続けた。祖父の功績を讃える言葉もまた数多残されているけれど、最も端的に言い表されているのが、  "戦に臨む武者行列の、その甲冑の立てる音までもが聞こえてくる"  文字の羅列だけで、読者にそこまで想像させる力。他の追随を許さない「偉大な能力」が祖父には宿っていたのだろう。  彼の息子、

短編小説『白昼夢』─あるいは『檻のなか』

   僕の住むこの狭い七畳のワンルームに、間の抜けたような雀の鳴き声が入り込んできた。それと同時に何かすえたような匂いも鼻口を漂っていく。気持ちの良い、とはまるで言えない早朝の目覚めだった。  カーテンの隙間から明けたばかりの弱々しい真冬の陽の光が差し込んできていて、それが瞼に当たっているのが分かる。眩しくて目を閉じたままゆるゆると頭を持ち上げていくと、こめかみが酷く痛んだ。  足元でカチン、と音がしてからコタツのヒーターが切れた。昨夜は両足をコタツに突っ込んで、上半身はテー

【小説】 序曲

   見上げた先にある朱塗りの鳥居を一瞥すると、その前に厳然と立ちはだかっている急勾配の石段へと私は右脚をかけた。  一体何段くらいあるのだろう。登り始めてすぐにそんな疑問が頭の中を掠めたが、小さく首を振ってただ意識を己が両の太腿へ戻した。疑問に思ったところで仕方のないことだ。兎にも角にも、ダラダラと上方へと続くこの石段を自分は登っていかなければならない。誰も私を背中に背負っていってなどくれないのだ。一段、二段と直向きに腿を持ち上げ持ち上げ、私は「愚直」という二字だけを引き

短編小説『選民』

   とにかく、本が読めればなんでも良かった。  時代はかの大戦後、朝鮮半島で勃発した内戦の特需で湧いていた。といっても、その恩恵を受けていたのは一部の産業だけであり、一般市民の懐など一切潤ってなどいなかったのだと、だいぶ長じてから知った。  なんてことはない。私の父はその特需に乗っかって財を成した男であった。故障した米軍の戦闘機の修理。それを大手の航空機メーカーから委託を受け、朝から晩まで、いや朝から翌朝まで二十四時間直して直して、直し続けたのだ。  たったの一年で

【小説】隠れんぼ -後編

*前編を未読の方は、ぜひ本編の前にお読みください。更に楽しんで頂けるものと思います。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー  閉ざされたものごとを無理やりこじ開けてしまった先には、砂漠みたいな酷い世界の光景が広がっていて、だから意地の悪い私は——。 「——以上が今回の調査結果となりますが、いかがでしょう」  その「いかがでしょう」に滲み出る強い自信に気圧されて、私は咄嗟に頷いていた。頷くことしかできなかった。  頭の中は靄がかかったように

【小説】隠れんぼ -前編

「もゥいいかァい」 「まァだだよォ」  かずやくんはいつも数字を数えない。鬼になったのが悔しくて、すぐに見つけに向かいたがる。  急いで鬼から逃げようと勢い良く踵を返した途端、目の前が茜色に染まった。  眩しくて、クラクラした。 「しーちゃん、はやくはやく」  茜色を背負って、みきちゃんが手招きする。焦って眉間に皺を寄せているのか、それとも楽しくて笑っているのか、逆光に遮られて分からない。とりあえず、先に駆け出した小さな背中を追いかけた。おかっぱ頭がふわふわ揺れている。  

【掌編小説】明けのまほろば

 クウクウと可愛らしい鼾をかいて、妻が隣で眠っている。  不意に目が醒めてしまってしばらく布団の中で呆けていた。  妻の無防備な横顔に微笑む。  すっかり冴えてしまった頭を持ち上げ布団から抜け出し、窓際の椅子に腰を下ろした。  群馬県は奥四万の山間に、朝陽が昇り始めていた。山の稜線が暁に染まり、朧な青空を濃密な雲の群れが流れていく。ほう、と一つ、僕は息を吐いた。  昨晩、部屋の明かりを消し、布団に潜り込んでしばらくしてから妻が囁いた。 「ねえ、やっぱり子供、欲しい?」  静