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私のことを語ってみる。 パート1

30代も残すところあと8か月。
自分の想像とは違う40歳になりそうだけれど、それでも何だかんだ楽しく生きています。
というか、自分が40歳を迎えるだなんて未だに信じられない。
本当にやって来るんだな、40歳って(笑)
独身で、結婚をしたこともなく、何だったらこの10年恋人もおらず、借金を抱え、貯金もなく、賃貸マンションの1Kの部屋に住み、会社員をしていて、役職もついていない一般社員で、何か特別な技能や資格があるわけでもない。

けど、別に将来に絶望や不安は感じていない。
なぜなら、俺にはartと演劇があるから。
artでも演劇でも目覚ましい成果や輝かしい実績があるわけではないけれど、それでも、俺の人生にはartと演劇があった。
これはとても大きい。
これがあれば人生を楽しんでいられるという確信。実際、楽しんで生きています。
そんな私の人生のお話。
誰かの心に響いて、誰かの救いになるのなら嬉しい。っていうか、なれ。
誰かの心に届け。
人生、捨てたもんじゃないって届け。

何者でもない私が演劇と出会う

私は何者か?

1・私は何者か?
「何者か」になりたいと思ったことはありますか?
タレント、役者、スポーツ選手、歌手、絵描き、会社経営者、有能なビジネスマン、宗教家、政治家、総理大臣・・・。
 
人によって「何者か」という定義はバラバラだとは思うのですが、私の定義する「何者か」とは、他の人とは違う何か飛びぬけた能力を持った人物を指します。


では、私は「何者か」であるか?
 
いいえ、私は何者かを目指した結果、何者でもなくても構わないと思い至った者です。
 
●私のこと
【会社員であり、芸術家】
私は普段、会社員として働いています。(ちなみに職種は葬儀屋で結構面白いエピソードがたくさんあります)
 
同時に私は自分のことを「芸術家」と名乗っています。
私にとって、「芸術」つまり「アート」は人生になくてはならない必要不可欠なモノであり、アートを創作することが私の生きる喜びでもあるからです。
 
芸術家を名乗るまでに様々なことがありました。
愛する芸術を恨んだこともありますし、呪いのように感じたこともあります。
しかし、今では芸術とのうまい付き合い方を学び、人生を共に歩む良きパートナーしてこれからの人生を豊かにしてくれることを確信しています。

2・何者かになりたかった私
【子供の頃は好奇心旺盛で超繊細】
幼少期の自分の事を両親に聞くと、決まって第一声が「何でも聞いてくる子」でした。とにかく好奇心が旺盛で、気になることがあると、近くの大人に何でも聞いていました。
また、超が付くほど繊細で、強い音や光に敏感に反応してしまうことが多かったことを覚えています。

繊細であることと好奇心旺盛であることはあまり似つかわしくない組み合わせかもしれませんが、大人になってからわかったことがあります。
「自分は繊細だ」と感じている人は大抵、感受性が強いです。感受性が強いということはどういうことかというと、他の人と比べて入ってくる情報量が多いことを指すのではないかと。
入ってくる情報量が多い為、その分、疑問が浮かんでくる。浮かんできた疑問には答えがないと気持ちが悪い。だから、何でもかんでも聞いてみる。という具合で、好奇心旺盛な子供が出来上がったわけです。

さて、この「感受性が強い」ということは私の人生で非常に大きな要素です。
この強すぎる感受性に自分の人生が大きく狂わされたし、同時に、幸福を得ることも出来たと感じています。
 
さて、感受性が強い少年はどんな大人になったのか。
最初の転機は大学に入学した時でした。

【演劇に出会い爆発する】
「演劇」
これは私の人生の大半を占め、私が追い続けている夢であり呪いでもあります。
大学の演劇サークルに入部したきっかけは、高校時代に母の読んでいたマンガ「ガラスの仮面」がきっかけでした。このマンガの中で「演じること」の面白さを感じた私は、大学に入ったら必ず演劇をやってみようと決心していました。
それまで、私の人生は怠惰的でした。休みの日は基本的に引きこもってゲーム。趣味はゲーム。とにかくゲームでした。勉強は苦手で夏休みの宿題をギリギリまでやらない、最悪の場合には提出しないなんてこともよくありました。
高校時代に弓道部に所属していたり、生徒会活動なども行っていましたが、楽しくてやっていたわけではありませんでしたし、友達もほとんどいませんでした。

高校時代、鬱屈とした生活を続けていた私にとって「演劇」との出会いはそれまでの自分の人生を大きく変化させるほどの力がありました。
サークルに入部後、夢中になって演劇に取り組みました。
演技を勉強すること、演劇そのものを学ぶこと。そして、表現することの面白さ。
そういったことに夢中になっていました。
そのうち、学内のサークル活動だけでは満足のいかなくなった私は、地元の社会人劇団に出入りするようになり、オーディションなどを受け、更に演劇にのめりこんでいきました。そして、当然なのですが、元々勉強することが苦手な私は、だんだん大学に行かなくなりました。

21歳の頃。サークル同期のメンバーの数名と劇団を旗揚げしました。同時に、大学を中退する決断を下しました。
それはかなり大きな決断でした。好きなことに夢中になり、一番好きなことで身を立てるんだ! と意気込んでいました。

当時、同世代の地元の演劇人の中ではそれなりに評価されていたかのように思います。旗揚げ公演の挑戦的でインパクトのあるお芝居は「面白いやつらが現れた」と当時の地元の演劇界で語り草になったものです。
しかし、実際にこの劇団で公演を行ったのは3回。(その後、私が脚本だけを送り、演出などは人に任せたものを含めると5回)
3回目の公演を終えた時、私は思いました。
「いつまでも地元にいてはダメだ」と。
演出家として今以上の表現力を手に入れるためにはもっと違う環境で表現そのものを学ぶ必要があると感じたのです。
また、当時の私はフリーターとして働き、劇団の公演も毎回火の車状態。自分の演劇自体にも満足いっておらず、光が見えませんでした。
 
そして、一念発起し、上京することを決意したのです。
劇団を置き去りにして。

パート2へ続く。

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