マガジンのカバー画像

真我の軌跡

12
この世界における真我の証について
運営しているクリエイター

記事一覧

真我の軌跡(13)知性

真我は自我を超えたところから世界を見ている。 それは認識と呼べるものだが、決して自我ではない。 そこには自我の要素がまったくないからだ。 本来、「私」とはこの真我のことであり、 ここに存在していると気づいている知性のことだ。

真我の軌跡(12)有性

真我は目に見えないからといって無ではない。 それは決して消えたり、失ったりするものではないのだ。 そこに有ることが真我であり、それは誰にでも認められる。 無を観察するのではなく、有ると同化することだ。 無に紛れるのではなく、有るを明晰にすることだ。

真我の軌跡(11)瞬間

真我は静止しているため時がない。 それは世界の時の中心に留まり、同時にすべての時を網羅している。 そもそも真我には過去や未来、現在といった時間の概念がない。 時のない真我を源流として、世界には時の移動が起こっている。 人の過去生や転生も、真我にとっては重なった瞬間の出来事なのだ。

真我の軌跡(09)巨大

真我はこの世界よりも巨大だ。 世界の始まりの前には真我だけがあった。 その真我の海に発生した小さな泡がこの世界なのだ。 そのことを世界は知らないかもしれない。 それでも真我はいまも世界をその懐に抱いている。

真我の軌跡(08)純粋

真我は何も付加されていないため純粋だ。 混じり気が一切なく、わずかな曇りさえない。 無色透明で何の性質もなく、特色というものもない。 それをこの世界では純粋性という言葉で説明するかもしれない。 だが、純粋な真我が自らの純粋性を主張することはない。

真我の軌跡(07)主体

真我を対象のように見ることはできない。 唯一の主体が主体自身を見ることはできないからだ。 それは誰の心の奥にも見る者として確かに存在している。 目に見えるものだけを信じる者は、この事実に戸惑うだろう。 だが、それは誰もが主体だということの証なのだ。

真我の軌跡(06)現実

真我だけが現実だ。 世界は常に移り変わり、そこに確固たる現実というものがない。 真我には動きがないため、変化するということがない。 いつも同じで、そのあるがままに在る現実は変わらない。 世界が逃れられない変化を超えて、真我は存在しているのだ。

真我の軌跡(05)唯一

真我はたったひとりしかいない。 世界は多様性に富んでいるが、その根源は一箇所だ。 すべては真我につながり、そこから切り離されることがない。 あらゆる善悪や敵味方、生死や過去未来を超えて、 その中心には唯一真我だけがいる。

真我の軌跡(04)無力

真我は特別な何かの力ではない。 それは無力の状態で完全に静止している。 だが、すべての力は真我を発生源としている。 真我はそれを未発現の状態で保持しているのだ。 発現したその力はまた真我に消え去る。

真我の軌跡(03)不動

真我は存在する以外何もしない。 不動であることが真我の本質だ。 何も語らず、何の意図もなく、愛も救済もない。 それに恩恵を期待しても、何も与えてはしない。 それが真我というものであり、無限の価値なのだ

真我の軌跡(02)常在

自分から真我を消すことはできない。 だが、誰もがその真我を認められるわけではない。 そうであっても、それは常に存在しているのだ。 この世界の始まりの前に、すでに真我は在った。 それからずっと在り続けている。

真我の軌跡(01)偏在

真我は世界すべてに息づいている。 あらゆるものに宿り、そうでないものはない。 ただ、その真我には姿かたちがない。 それでもそれは隠されているわけではない。 自分は真我だと悟った者がそれを見るのだ。