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瞑想の道

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真我を探究する瞑想において、自らの内に真我を実証していく。それは知識と瞑想が重なり合って深遠なる真我を理解する道。
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記事一覧

瞑想の道〚12〛自我の成熟

 悟りという言葉を知っていても、それが何を意味するのか知っている人は少ない。悟りとは真理のことであり、その真理とは自分が真我であるということだ。そう言われても、ほとんどの人はピンとこないだろう。自分には縁のないことであり、他人事のように話を聞いて終わりになる。それよりも、この世界で何を楽しみとして、どのような人生を送るのかが最大の関心事だ。多くの人はできる限り楽しく、充実した人生を送るために、人間関係や財力を高めることに注目し、個人として評価され、健康な肉体を持ち、誇り高く生

瞑想の道〚11〛真我の真実

 真我は特別なエネルギーの類ではない。もし何がのエネルギーであれば、それは真我ではないということだ。真我にはエネルギーがない。それは完全に静止していて、一切のエネルギー活動が行われていない。その状態を確認することができれば、それが真我だ。真我はエネルギーがない必要がある。もしそれがあるのであれば、真我によってつくられている世界は根底から歪んだものになってしまうだろう。世界の基盤としての真我は、静止していてエネルギーがなく、つまり何の性質もなく、姿かたちさえない必要があるのだ。

瞑想の道〚10〛真我と世界

 世界の動きは予測できず、制御することもできない。そのため、自我は世界に苦しめられることになる。世界は自我の願いを叶えることなく、思い通りに事を運ぶことに障害をもたらす。自我には様々な問題が降りかかり、その対応で心身は消耗していく。自我は何度も希望を失い、自分の存在に虚しさを感じる。そんな自我にとって、真我を悟ることなど何の意味もないと思うだろう。自我にとっては、この世界で願いが叶い、物事が問題なく円滑に進んでいくことが大切なのだ。そうなれば、自我は幸せであり、人生は希望に満

瞑想の道〚09〛真我への道

 真我実現には二つの道があるといわれている。ひとつは探求の道であり、ひたすら自らが真我であることを目指す道だ。もうひとつは、すべてを真我に明け渡す道であり、熱烈な信仰によって真我到達を目指す道だ。結局はどちらの道でも真我実現に至るのだが、はじめに難しくあとで楽になるのは探求であり、はじめに楽であとで難しくなるのが明け渡しだと感じる。明け渡しの道がそう思えるのは、自我の問題をどうやって解決するか曖昧な点にある。修行者はすべてを真我(あるいは神や聖者)に明け渡したと言うかもしれな

瞑想の道〚08〛思考の意味

 瞑想中の思考を問題視する人は多い。多くの場合、瞑想者は思考を邪魔な存在だと思っている、瞑想中に思考がなくなれば、いい瞑想になると思うのだ。そう分かっていても、思考をなくすことは困難を極める。しかし、瞑想中の思考には重要な役割がある。瞑想中に思考がなくなることは、実はあまり良い状況とはいえない。例外的に、真我自体になっているときには思考は起こらない。真我には活動がないため、そこで思考は起こりようがないのだ。ここでの問題は思考ではなく、焦点ということになる。焦点とは何なのか。瞑

瞑想の道〚07〛私と真我

「私は誰か」の探求の結果として、「私は誰でもない」という答えに行き着くことがあるが、これは半分正解で半分間違っている。「誰でもない」という言葉の意味が、どんな自我でもないということであれば間違いではない。しかし、自分とはただ自我を失って存在しているだけということであれば、もう少し探求を深めていく必要があるだろう。問題は「私」という言葉の取り扱いだ。「私」という言葉には、どうしても自我の匂いがつきまとう。そのため、あえて「私」という言葉を排除しようとする方向になりがちだ。実際に

瞑想の道〚06〛自我の場所

 悟りの修行において自我を拒絶する方法があるが、これには疑問がある。自我を消し去ろうとしたり、忌みすべきものとして排除することによって悟りが得られると考えているのなら、それは再考する必要があるだろう。自我というものは、身体であり心であり、パーソナリティーであり、その記憶などによって成り立っている。人々はそれを自分だとして生きていて、その個々人によって社会が形成され、社会活動が営まれている。それを一括りに拒絶し排除しようとすることは無理があることであり強引過ぎるきらいがある。た

瞑想の道〚05〛自我の期待

 真我を悟ることは何かを得ることではない。どこかに到達することでも、特別な何者かになることでもない。それは元々の自分に気づくことだ。この話に自我は眉をひそめるだろう。自我は世界の物事同様に真我を飾り物にして、美しく気高い自分になりたいと思っていたのだ。そうでないなら、真我を悟ることに意味はないとさえ言い切るだろう。自我は悟りに何らかの価値を見出したい。そのため、真我は特別なエネルギーであり、運命を変える手段であり、恐れから解放され心安らぐ癒やしであってほしいと願う。そして、そ

瞑想の道〚04〛人間性の壁

 悟りというものは自我を磨き上げて到達するものではない。素晴らしい人間性をつくることが悟りではないのだ。古の賢人は怒りを鎮めなさい、貪欲さを抑えなさい、愚劣な行いを止めなさいと説いている。そうして人間性を高めれば、賢人と同じ悟りに至るのではないかと思うかもしれない。もちろん、人間性を高めることは大切なことだ。だが、その先に悟りという到達点はない。もし悟りを求めるのなら、高い人間性とは別の視点で探らなければならない。それはつまり、どのような人間になるかがこの悟りの着目点ではない

瞑想の道〚03〛真我の尻尾

 瞑想で悟るためには、まず悟る必要がある。それから、その悟りを細やかに検証していくのだ。これが本来の悟りの道だ。悟りが何か分からずに、ただ闇雲に瞑想を続けても、悟りに行き着くことは難しい。多くの場合、これは悟りではないという事例だけが積み上がっていくだけだろう。悟りとは、自分の本質を明確に知るということだ。「私は誰か」の答えをまず手に入れることからはじめ、それからそれが本当に「私」、つまり真我なのかを検証していくのだ。  真我を探求することは、多くの人にとって奇妙に感じられ

瞑想の道〚02〛真我の感覚

 ある程度、精神が成熟すると、「私は誰か」の探求が始まる。それは知識ではなく、現実の感覚である必要がある。その問い掛けの知識的な答えは「私は存在である」ということだ。ただ、この言葉を覚えたとしても、自分が存在だと実感することはできない。知識は必要であるが、それはあくまでも知識であって、それを知ったからといって現実化するわけではない。知識は単に瞑想で探求する方向性を示しているに過ぎないのだ。実際には、自分で瞑想し、その中で存在であることを実感する必要がある。それを確実につかみ取

瞑想の道〚01〛最後の探求

 瞑想を始める動機は何であれ、最終的には「私は誰か」を探求することに行き着くことになる。それが瞑想の効力を最大限に発揮させる問い掛けであり、人としての精神的探求の最終局面へと向かわせるものだからだ。そこでは瞑想自体が目的となることはなく、それはあくまでも何かを知るための手段という立場に定まる。その何かが「私は誰か」を知ることであり、それを知り、自分の理解に落とし込むことができれば、瞑想の役割はそこで終わる。瞑想にも探求にも終わりはあるのだ。 「私は誰か」という探求が起こる前