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瞑想の道〚06〛自我の場所

 悟りの修行において自我を拒絶する方法があるが、これには疑問がある。自我を消し去ろうとしたり、忌みすべきものとして排除することによって悟りが得られると考えているのなら、それは再考する必要があるだろう。自我というものは、身体であり心であり、パーソナリティーであり、その記憶などによって成り立っている。人々はそれを自分だとして生きていて、その個々人によって社会が形成され、社会活動が営まれている。それを一括りに拒絶し排除しようとすることは無理があることであり強引過ぎるきらいがある。たとえその無理を犯して自我を亡き者にしても、突如としてそこに真我が現れて悟れるというものでもない。その結果、自分の拠り所を失い、不安定な心の状態を引き起こすことにもなりかねない。

 悟るためには、まずはじめに自我が自分とは真我であると納得しなければならない。そのためには、真我を目の当たりにさせる必要がある。いくら真我についての本を読んだり、悟った人の話を聞いたりして多くの知識があっても、自我を納得させる材料としてはまだまだ貧弱だ。もっと直接的である必要がある。自らそれを直接感じているのであれば、自我はそれを否定しようがなくなる。つまり、瞑想において、真我の状態でとどまることが、自我を納得させるための最良の方法となるのだ。そこで「私」とは真我のことであると自我が理解できれば、自我はおのずと「私」の座を明け渡すだろう。自我はそれで消え去るのではなく、世界に戻っていく。元々、この身体や心は世界の活動なのだ。真我としての「私」はそれを目撃している者であり、いままでもそうであった。

 自我がみずから身を引くのであれば、そこには何の問題も起こらない。自我は真我が「私」であるという真実も得ているため、「私」を失って、不安定になることもない。自我は引き続き存在するだろうが、それは世界の活動としてであり、「私」としてではない。その活動が何であれ真我にとっては何の問題もない。真我にとって、どのような自我になるかは関心がないことなのだ。関心がないというよりは、世界を信頼しているといったほうが言葉として適切かもしれない。真我が自我に対してあれこれと注文をつけたり、こうすべきだとか教えを垂れることもない。もちろん、自我の間違いに対して罰を与えたり、地獄に落とすということもない。

 自我が「私」とは真我のことであると理解できれば、あらゆるカルマから解放されることになる。カルマとは、自我が「私」であると信じていたときに、「私」の行為に対する結果として世界から与えられるものだ。浅はかさや欲望によって間違いや悪行を起こせば、その報いとしての結果、つまりカルマが待ち受けている。人はどう頑張っても完全な行動などできないものだ。それは苦しいものとなり、自我の背に重くのしかかるものとなる。しかし、真我が「私」であるなら、そこにカルマは起こらない。なぜなら、真我には活動がないからだ。活動がないならカルマは起こりようがない。自我は「私」を真我に明け渡すことで、カルマからも解放されるのだ。ただし、世界には物事が起こる。自我にも物事が起こるが、それは「私」のカルマにはならない。それは世界が展開する活動であり、同時にそのすべてが真我へと向かう過程になっているのだ。

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