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瞑想の道〚09〛真我への道

 真我実現には二つの道があるといわれている。ひとつは探求の道であり、ひたすら自らが真我であることを目指す道だ。もうひとつは、すべてを真我に明け渡す道であり、熱烈な信仰によって真我到達を目指す道だ。結局はどちらの道でも真我実現に至るのだが、はじめに難しくあとで楽になるのは探求であり、はじめに楽であとで難しくなるのが明け渡しだと感じる。明け渡しの道がそう思えるのは、自我の問題をどうやって解決するか曖昧な点にある。修行者はすべてを真我(あるいは神や聖者)に明け渡したと言うかもしれないが、それはいったい誰がそう言っているのかということだ。ほとんどの場合、それは自我がそういっている。すべてを明け渡した私を誇りに思っているとも聞こえる。これでは自我を強化していることになる。つまり、この方法では「私」は自我であるということを超えるきっかけがつかみ難いのだ。

 明け渡しの方法において、注意すべきはこの自我のことだ。明け渡しの修行者はその熱烈さで知られているが、問題はそれで真我実現に至ったのかどうかだ。実際にそれで真我を実現した人もいるだろうし、それを疑うつもりはない。むしろ、この困難な道でよく真我実現に至ったと最高の賞賛を贈りたいくらいだ。そこに至るには、すべてを明け渡した自分を明け渡さなければならない地点がある。つまり、それは明け渡しをやめることだ。明け渡しの究極は明け渡しをやめることなのだ。そこがこの道の大きな壁になっている。それをやめることは、道を外れる気がするし、それをやめなければ先には進めないのも分かる。そこにはやはり自我が絡んでいる。

 真我に対してすべてを明け渡していく。すべてを明け渡したと思っていても、まだそこには何かがある。それが自我だ。「私はすべてを明け渡した」と言っている自我が残っている。この自我すらも明け渡さなければ、すべてを明け渡したことにはならない。しかし、これを明け渡したなら、明け渡しの修行をしてきた自我を失うのだ。つまりそれは、明け渡しの実績を自ら失うということになる。それでは明け渡しをしてなかったということにならないか不安になる。しかも、これからは明渡しの行すらできないのだ。これは信じてきた道を諦めるようにも思えるし、真我を諦めるということのようにさえ感じる。強い意志を持つ修行者は、そんな気持ちに負けず、意を決して自我自身を明け渡すだろう。それでもまだ明け渡してない感覚が残る。それをいくら明け渡そうとしても、明け渡すことができない。それは明け渡すことができないはずだ。それが真我なのだ。真我だけは決して明け渡すことができない。

 こうして明け渡しの道は真我において完結する。自我を明け渡すことで、明け渡しが終わる。しかし、そこにはまだ何かが残っていて、それをも明け渡してしまおうとするが、それは決して明け渡せないもの。それが真我であり、その時点で明渡しは完了していて、気づけば真我になっていたという状況がそこで起こっている。このことは最終的なところで突然に起こるだろう。ただ、この最終的なところが難しい。このように真我実現には二つの道があるが、探求の道であっても、終わってしまえば、明け渡しの道とそう変わらなかったと思える。むしろ、これは明け渡しの道だったのではないかとさえ感じる。どちらを選択しても、同じ真我にたどり着く。そして、どちらの道にも何かしらの困難さが待ち受けているのだ。

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