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瞑想の道〚08〛思考の意味

 瞑想中の思考を問題視する人は多い。多くの場合、瞑想者は思考を邪魔な存在だと思っている、瞑想中に思考がなくなれば、いい瞑想になると思うのだ。そう分かっていても、思考をなくすことは困難を極める。しかし、瞑想中の思考には重要な役割がある。瞑想中に思考がなくなることは、実はあまり良い状況とはいえない。例外的に、真我自体になっているときには思考は起こらない。真我には活動がないため、そこで思考は起こりようがないのだ。ここでの問題は思考ではなく、焦点ということになる。焦点とは何なのか。瞑想中の要素は三つある。ひとつは観察者としての真我、もうひとつは観察される対象、そして真我から対象へと意識を向ける焦点だ。焦点はあちこちと動き回り、情報を収集する役割を持っている。瞑想中、焦点は思考に向かい、そこで情報収集をしようとする。なにしろ瞑想中は、その他に焦点が向かう場所が少ないため、自然と思考を捕まえてしまうのだ。

 瞑想中の望ましい状態は、主体と客体、そして焦点がひとつになっていることだ。すべてが主体に集約されている。客体は主体となり、焦点も主体に収まっている。いわゆる三位一体の状態だ。結果として、この状態であれば、思考は起こらない。焦点はひとつの場所にしかいられないという性質があるからだ。しかし、焦点は活動的であるという本性もある。ひとつのところにじっとしていられない。このひとつの状態からはじめに離れるのは焦点であり、そうなると客体としての思考が起こりやすい状態となる。思考している状態は、すでに焦点がそこに飛んでいるということであり、その焦点によって三位一体が外されているということになる。

 この状態で焦点を野放しにしていると、思考したままということになってしまう。そこで、瞑想中は観察者として常に気づきを発動させておく必要がある。思考に気づいたら、主体へと戻るように意図しておくのだ。もちろん、そうしたからといって、うまく焦点を制御できるわけではない。気を許せば、すぐに焦点は思考へと飛んでいくだろう。それでも、気づきによって何度でも主体に戻すようにする。これはかなり集中力と根気のいることであり、疲れる作業だと感じるかもしれない。焦点は気ままにどこにでも飛んでいこうと落ち着きがないのだ。それでも、それを続ける必要がある。そうすることによって、心のなかに新たな道を築くことになるからだ。

 瞑想していないとき、そこには思考がある。仕事をしたり遊んでいたりするとき、自然と何かしら考えているものだ。つまり、世界や身体と心の中の思考には通い慣れた道というものがある。それに比べて、主体感覚は瞑想を通してでしか、なかなか感じられないものだ。瞑想中の思考は、目が覚めて世界で活動している時の思考と同じものになる。つまり、目が覚めているときと瞑想との共通領域が思考なのだ。瞑想中の思考への気づきと主体へ戻ることは、思考から主体への道を築いているといってもいい。そこの道は日常的に使われていないため、まだ細くおぼろげな感じだ。瞑想中のそうした気づきの修練は、その道を太く、通い慣れたものへと変えていく。そうしたことを繰り返すことで、結果的に日常の状態から主体を感じられる道がつくられていく。瞑想中の思考はこういう役割を担っている。


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