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瞑想の道〚07〛私と真我

「私は誰か」の探求の結果として、「私は誰でもない」という答えに行き着くことがあるが、これは半分正解で半分間違っている。「誰でもない」という言葉の意味が、どんな自我でもないということであれば間違いではない。しかし、自分とはただ自我を失って存在しているだけということであれば、もう少し探求を深めていく必要があるだろう。問題は「私」という言葉の取り扱いだ。「私」という言葉には、どうしても自我の匂いがつきまとう。そのため、あえて「私」という言葉を排除しようとする方向になりがちだ。実際には「私」という言葉はとても重要で、それは単に自我のことだけを意味しているわけではない。それは真我のことを意味してもいる。つまり、探求とは「私」という言葉を真我を意味するものへと変換していく行程なのだ。

「私」という言葉は、一人称であり、それは他の誰のことでもない自分のことだ。たったひとりのことを指していて、他の人称とはその点で異なっている。その一人称が消えることは決してなく、必ずそこに存在しているものだ。もし探求の答えが誰でもないということであれば、誰でもない誰かとして二人称か三人称に組み込まれてしまう恐れがある。そうなるのであれば、そこにはまだ曖昧さや不確実な状況が残されてしまい、そのことに自我が納得するには至らないだろう。そういった意味で、「私」はかなり強い力を持ち、探求において重要な意味を持つ言葉になる。

 かのラマナ・マハルシは、真我とは「私」という気づきの連続体であると言っている。存在だけを感じていると、そこには誰もいないという感覚が起こるかもしれない。厳密にいえば、それは自我がそこにいないという感覚なのだ。決して「私」が不在になっているということではない。「私」という一人称は必ずそこに存在している。つまりそれは「存在=私」ということであり、最終的には「私」だけが残る。「私は誰か」の答えは、「私は存在である」であり、「私だけが存在している」ということになる。そう理解できれば、曖昧さや不確実な状況が払拭され、自我は納得することができ、「私」を真我に明け渡すだろう。

 このように、「私」という言葉は自我を意味する言葉として排除するべきものではなく、むしろ真我探求の最重要な言葉として扱うべきものだ。もし「私」という言葉に抵抗があるのなら、まだ自我の執着がそこに残っている可能性が高い。そこで手っ取り早く「私」という言葉を手放すのではなく、真我は誰なのかをよく感じてみることだ。それは必ず誰かであるべきで、他ならぬ「私」という一人称であるはずなのだ。それに違和感があるのなら、なぜ違和感があるのかよく熟考してみることだ。一人称「私」は真我から発せられていて、決して自我から発せられているものではない。そう気づくことが他ならぬ真我実現となるのだ。

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