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小説 Lento con gran espressione

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( レント・コン・グラン・エスプレッシオーネ) ショパン ノクターン第20番 嬰ハ短調より着想した小説を連載します。
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記事一覧

【小説】Lento con gran espressione(7)

 食事を食べ終わってから洋子さんが徐に話し出した。それまでどういうわけか皆黙ったままだったのだ。 「どう思う?小林さん」  小林さんは訊かれて困ったなといった感じで頭をかいた。 「どうって、他人事としても、まあ、どうしてか、ほっておけないっていうか」「そうね。この家を壊すなんてとんでもないわ。家の中も凄く素敵。特に庭園はひと財産よ。そうでしょ? 月子ちゃん」 「あの、わたし、まさか、こんなに凄いと思ってなくて……」 「もったいないですよね、更地にするの」  わたしも皆と同

【小説】Lento con gran espressione(6)

「凄い、まるで異世界ですねー」  菅野くんが感嘆して言った。   そこには鬱蒼と茂った緑と色とりどりの花で囲まれた小さな楽園があった。周囲に塀がなく開放的だ。あまり見たことのない石造りの家だった。平屋で敷地が広い。家の壁には可憐な淡いピンクの薔薇と白い花が窓を除けて張っていた。大きな木が目立って一本あって小さな小花をちらしている。庭は見事に入り口から薔薇が咲き誇っていた。周囲には名前の知らない華麗な花が無数に咲き乱れている。清らかな白い花々は上を昇るように咲いていて統一さ

【小説】Lento con gran espressione(5)

 今日は空が真っ青で雲一つないドライブ日和だ。しかし、菅野くんは容赦がなかった。 「小林さん、臭いですよ」  小林さんの愛車にある芳香剤が臭いというのだ。確かに甘ったるい匂いが充満していた。それも軽自動車だからよけい強烈に臭うのかもしれないとわたしは言わないけれどそう思った。 「そんなに臭うかな?」 「臭いますよ、いかにもおじさんだから。これまずいレベル」 「そこまで言わなくてもいいじゃないか」  すると洋子さんがパシリと言った。 「途中でファブリーズ買いましょう」  小林さ

【小説】Lento con gran espressione(4)

 翌日はお店の定休日だった。わたしはパジャマのままお父さんの写真を何気なくぼけっと見つめていた。スマホが鳴った。お母さんからだ。話すのは久しぶりだった。お父さんが亡くなったことがきっかけでわたしたちはあまり口をきかなくなっていた。少しためらいがちに話は始まった。 『月子、元気にしてる?』 「うん」 『あのね、急にごめんね。今日は少し急ぎの用なのよ』 「うん」  わたしは「うん」しか言えない自分に腹が立った。こんなんじゃだめだ。でも構わずお母さんは続けた。 『実は亡くなっ

【小説】Lento con gran espressione(3)

 お客さんが頼んだぶんだけコーヒー豆を挽く。アルコールランプに火をつけてフラスコに入った水を加熱する。サイフォン式の入れ方で、気圧の変化で上部のロート部分に下で沸かしたお湯を移動させるやり方だ。この入れ方はレインドロップの名物だった。カウンターにいるお客さんはその作業を眺めながら、会話を楽しんだりぼけっとしたりすることが多い。わたしたち店員もよく遠くから眺めている。  夜の十時になった。わたしと春菜ちゃんはテーブル席担当で今はお客さんがいない。接客することはなかったから二人で

【小説】Lento con gran espressione(2)

レインドロップは無音だった。音楽をかけないのだ。当然お客さんの声で店内は溢れていた。 「音楽、なんかかけてたほうが紛れていいんじゃないんですか?」  バイトの菅野くんが以前洋子さんに尋ねたことがある。  すると薄茶の前髪を指で遮りながら洋子さんは、こう答えた。 「音楽があると余計声を出しておしゃべりするでしょう? それに人が少ないときの静けさが好きなの。一人できてるお客さんにとってもいいんじゃないかな」  わたしは、なるほどと思った。洋子さんは音楽好きだけれど流さないのにはわ

【小説】Lento con gran espressione(1)

 ──『ゆっくりと呼吸する速さで歩けばいい。胸を張って優雅に』 急ぎ足のわたしにあなたはそう言った⋯⋯。   朝はブラックコーヒーみたいに苦手だ。五月なのに寒かった。まだ起きたばかりでアクビをしながら布団をずりあげた。するとふわっとお花の香りがした。そうだ、昨日持って帰ってきたテーブルブーケだ。コップに入れてベッドサイドに置いたのだった。確か洋子さんが教えてくれたジャックカルティエという名の薔薇だ。高級ブランドみたいな名前だ。なんだっけ? 淡い色のピンク。綺麗な。そんなこと