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日記:居場所が見つかると命が吹き込まれる:京都タワー…

大人になって気づきましたが私はモノ(家具や食器ほか)がどうも好きなようで、これはきっと美大で工芸工業学科だった母の影響なのですが、とにかくある程度よいものなら、使えば使うほど好きになり、使うたびに感動します。一方で嫌なのが捨てることです。何がしかに、ずっと使いたい。なのですぐにダメになってしまうものや意味の分からないモノが苦手(何にも使えなくても、存在として意味のあるものはたくさんあります、そうではなく…作り手の愛情が感じられないものと言ったほうがいいかなあ)。私はそれらを「どこにもいけないもの」と表現したりします。

どこにも行けないもの

例えば以前、ファミレスかなんかでもらえる子ども用のおまけのおもちゃで、本当に小さなレールと新幹線をもらった時は、申し訳ないと思いつつ悲しかったです…。というのは、レールはぐるっと小さく円を描くようにつなげることができるのですが、プラレールのような他のパーツはないのです。それ以上には広がらないのです。小さな円をずーっとぐるぐる回らなければならない…それを見るのが悲しかった。

もちろん、「自由な発想」でそのおもちゃを他の何かと組み合わせて、楽しもうと思えばいくらでも楽しめるのですが。そして作った側も、私の気づかない何がしかの愛情を込めているのかもしれませんが。あくまでその小さなレールと新幹線を前にした瞬間を切り取ると、「それにしても作って世に送り出すならば、もう少し、もっと何か、『どこかに行ける』可能性を見せることはできないものか…」と思ってしまうのです。そのおもちゃは、いつの間にかなくなってしまったなあ…。

扇風機となって命が吹き込まれた

で、何かというと、命が吹き込まれたものの話です。それも、ちょっと反則というか…ブラックジョークが入っているかもしれません。この前の段落はなんだったのかって話になるかもです。以下、虚構新聞の記事です。(←虚構新聞です)

大学生時代を京都で過ごしたのですが、京都タワーのカタチを見るたびに「ああ、こういうものなんだなあ、まあ…。いかにも昭和のタワーで、見慣れると味わい深いのよ」と思いつつ、モヤモヤがどこかにあったのですね…そのモヤモヤは思いのほか深く私の心に居残っていたようです。というのは、この記事を見たときに、一気に爽快な風が私の心を駆け抜けたから…。

そうだ、これなんですね。正しい使われ方をすると、本当に見ていてすっきりと心地いい。京都タワーのあのカタチの居場所はこれだったんです。今まさに、京都タワーのカタチが本来の生命を得た。まさにこれだ。まさに、まさに。

まさに記事の画像のように、雲ひとつない青空を大きな風が吹き抜けていくような私の中のモヤモヤが一つ成仏しました本日。以上です。もしかしたらすみません。おやすみなさい。


タイトル画について

この京都タワーは幾分すてきです。これも写真に撮ることで、命が吹き込まれているのだと思うな…。

(日記:2022年7月22日)

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