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銀の匙

『銀の匙』
中勘助

前編が1910年(明治43年)に執筆され[1]、1913年(大正2年)には「つむじまがり」と題された後編が執筆された。夏目漱石に送って閲読を乞うたところ絶賛を得、その推挙により同年4月8日から6月4日まで前編全57回が、1915年(大正4年)4月17日から6月2日まで後編全47回が東京朝日新聞で連載された。

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私の書斎のいろいろながらくた物などいれた本箱の抽匣に昔からひとつの小箱がしまつてある。・・・(中略)・・・なかには子安貝や、椿の実や、小さいときの玩びであつたこまこました物がいつぱいつめてあるが、そのうちにひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかつて忘れたことはない。
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本棚の引き出しにしまった小箱の「銀の小匙」。私の幼少期の思い出が想起される。銀の匙は、伯母さんが私の為に見つけてきたものである。私の伯母さんは仏生の人で、伯母さんは人と自然を区別することはなかった。その精神は私に影響を与える。人も自然も私の苦悩を癒してくれるようになった。そして初めての友達が「お国さん」。学校に入ってできた友達が「お恵ちゃん」。広がる交流は私の知見を拡げ、自我を意識させる。自意識の強い私は学校や世間になじめず、特に教師や理不尽な兄との軋轢に苦悩する。兄との決別、伯母さんの死や様々な別れの経験は孤独な自己の存在を確認し、自我を確立させた。友人の別荘での、その「姉様」との出会いと別れは、少年が何時の間にか青年へと成長をした証ともなっている。

中勘助は、静養のために明治四十四年(1911年)の八月に野尻湖を訪れ、九月二十三日から二十五日間にわたって、湖中の琵琶島(弁天島)で島篭りをしました。「銀の匙」の前編は翌年再び訪れた野尻湖で執筆されました。

「ほほじろの聲」は大正十三年(924年)五月五日に、野尻湖での生活をなつかしく思い出して作られた詩です。この詩碑は公民館の完成を記念して昭和四十八年(一九七三)に建立されました。

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