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あそこまであるこう 試し読み

boothで出す(kindleも)本の試し読みです!

 人の通らないときを見計らって警備帽と手袋を直す。冬は十年以上続いていたから、作業用の防寒着を上にも下にも着込んだ私は名刺をストラップで下げて『若菜』ビルに入っていく人を温かそうでいいなぁと思って見ていた。皆シャツや薄いニットという軽装、長く続く氷河期ではなく、そこだけ春が来ているみたい。大学を出たころぐらいから続く冬には常に冷たい風が吹く。ずっと寒い、どっかにマンモスでもいるとか?
「この長い冬に首相は人口太陽の温度を上げることも検討しており……」
『スプリングピンク』区域と呼ばれる丸く超高層な紫のビル街にある放送モニターがニュースを流す、しかしもう誰も気に留めて足を止める人はいない。むかし一斉に行われたテストで女の私が永遠の冬に閉じ込められてからは、もはやどこになにもいってもとどかないねがいをいうよりも、ただよりいいこでありたいひとのほうが多くなった。
 若菜ビルに入るガラスの扉の向こうでなにか花のような観賞植物が青い蕾をつけていた。入ることは誰でもできる、泥だらけの作業靴でも、扉は誰にでも開かれている。だけど、用がないのに入ることはできないしなぁ。
 たった一枚の扉の向こうの、青い蕾に私が触れるまでの話をしようと思う。
 
 そこにいきたい、そこはあったかい。ここはさむい。
べつに恋人がほしいわけじゃない、元彼女がいたのもずいぶん前に行われたそのテストの時の話で、こんな生活カツカツな時にたった一万円の指輪をプレゼントされても。女心は女でもわからない。
 居住区を書いただけで不採用続きの求人サイトからのメールをゴミ箱に捨てる、冷たく寒いアイスクールに住むということは能力に問題があるのではないか、なぜならテストは公平に行われたから。ロックスターになってギターを叩き折りたいぐらいにむしゃくしゃするのはなぜだろうか、アイスクールにアルバイトの女性が多く住むのはたまたまか?誰もその話題には触れない。バイト帰りのソニックレインではいつもヘッドホンでロックを聞いている、胸に抱いた小さな違和感には古いロックンロールが合う。
 プレゼントをする人もいなくなってからは生活することしかしていなかった。『経済的に重要な』スプリングピンクを照らす人口太陽は私に一瞥もくれず、空気を循環させるための人工的なずっと冷たく吹き降る風をビルのへこみでなんとかかわしながら、私がこの扉の向こうの人はなにをやっているのだろうか?と思って、扉の向こうの『アカネ』と書いた看板をメモするまでは。
 家に帰り、そのメモを持って古い量子コンに向かう、アカネのサイトが出てきた。
『当社の製品はエンジニアが……』
HyperC#という『言語』が書いてあった。英語?検索ワードを変える。
 使用例にモバイルコムのアプリ。その言語を使っているというアプリ制作ツールの公式サイトへ行く、無料だ、こないだ端切れでつくった手提げバックみたいに欲しいものがつくれたらきっと便利だろう、私はそれをダウンロードし、やがて量子コンを買い替えた。
 あのビルまでアイスクールにあるアパートからソニックレインで三十分、そんなに遠くはないのに、扉の向こうにだけなぜ春が来ているのか。あったかいところへいきたい、ここはさむい。
 最初にできたアプリはチープでビルの扉を開けるものではなかった。
 二つ目のアプリは頓挫した。少しできるようになったものの私レベルのできることは初学者が皆やっているのだった、まだ扉は開かないだろう。
 三つ目のアプリを作る時。私は悩んでいた。そしてたまたまアカネが行うゲームのコンテストを知り、応募志願者の交流会に私は応募した。
 服装は自由とのことなのでジーパンと履き潰したスニーカーを履き、綿のシャツにセーターを着て羽毛のダウンを羽織っていった。これがいちばん温かい。応募者は同じような恰好の男性が多く、ジーパンを履いた化粧もしていない女は私だけで、他の女性はみなきちんと化粧をして可愛らしいワンピースやカジュアルなスーツだった。足元さえも雪を見たことないようなハイヒールにパンプスで、私はやや尻込みした。
 しばらくそれぞれ会談して、私はそこにいた男性と古いゲームの話をした。エンジニアの腕でその名作を復活させるとその人は息巻いた。
 場が温まったところで主催会社のスタッフが
「さぁ!そろそろ移動しましょう」
と大きな声を出して、みんなを先導していった。
 ついていこうと歩き出した時ふいに下腹部に違和感があった。そうだ、そろそろ月のモノだ。トイレいかなきゃ、しまった!持ってきていない!慌てて声をかけたアカネの女性社員は小さなポーチを渡してくれた。返すついでに私は少し談笑した、女子社員の左手で髪をかき上げる懐かしい香り。そういえば人の髪にしばらく触れていないなぁ。その時、私は彼女の人差し指に小さな指輪を認めた。
「指輪可愛いですね」
「実はこれ自分で買いました。会社男ばかりで彼氏いないのかとみんなしつこくって。しばらくいいのに」
彼女はいたずらっぽく笑い、ちょっとだけ困ったみたいな顔になる
「すいませんこんな話しちゃって、でもこの業界にも女性がどんどん来てほしいです!」
「がんばりま~す!」
私はおどけて大股に歩いた。自分で買う、きっと欲しいのは指輪じゃなかったんだ。
 会が終わって帰り際、私は向こう側からずっと見ていた青い蕾に触れようとした。
「もしもし」
扉の向こうで警備員の男性が私に声をかけた。それはそうだ。わたしは大きな声を出して笑った。許可を得て撮った写真をあとで調べたらそれはエケベリアだった。きっとホームセンターに行けば触れられる、出入り禁止になってしまってはどうしようもない。
 だから、またこよう。
 にしてもあそこは本当にあったかいなぁ、経済的に重要だからって話はほんとうかも。いつの間にかジョウシキになっていた努力神話は、アイスクールに住むのをただの趣味といい、あるいはなぜ引っ越さないのかと責め立てた。イヤホンからは古いロックが流れている。
 それからしばらくしてアカネのゲームコンペが始まった。私は懸命にコードと企画を書いたけれどガラスの扉の向こうには行けなかった、だけどきっとこれは何回も何回も試すものなのだろう。とりあえずドアを叩くことはできたし、もうちょっとやってみよう。ガラスの扉の向こうに行きたい、そうだいつかアカネの近くに引っ越すのもいいなぁ、ソニックレインで一時間にしては温かそうなあそこに。とりあえず行ったつもりになろう、私はホームセンターでエケベリアのずっともっと小さな鉢植えを買った。
 ちょん、と触れてみた。花のような蕾はまだまだ咲かない。
 いい便りが来たら、きっと春が。私は古い恋人の写真を捨て、エケベリアの鉢植えに水と名前をあげた、若菜にしよう。
 はやくあったかいところにいこうね、若菜。おまえの名前はアカネっていう会社のビルからもらったの、あそこには春が来ているんだ、ずっと昔に壊れてプラスチックで作った空に平たくへばりついている人口太陽だって降り注ぐ。お前もあったかい春がいいだろ、若菜?
 何も言わない若菜は、アイスクール区域の私の言葉をただ黙って聞いてくれる。
 そうだよな、さむいのは嫌だもん。若菜も早く花を咲かせたいよな、調べたらお前もこの長く冷たい冬さえ明けるころには、アカネにふさわしい、赤くて小さいかわいらしい花が咲くみたいだよ。
 私も嫌だな、寒いのは。ガラスの扉の向こうで一緒に花を咲かせようか。
(続)

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