ひとのグラデーション


ことばの原稿を書こうとして行き詰まっていたのでそもそもとSpotifyでモーツァルト を検索して流す。
音楽検索する並びにクラシック作家をめにするのは不思議な気がする。アナログ世界にいるはずの人々がデジタルに置き換えられてひょいひょいとんで音を醸し出す。
便利だと思うと同時に、Iphoneから流れてくる電子音にそぐわないなと思う。キンキン響く音はクラシックの音と相性がよくないんだろうなと思う。
それでも流れてくる旋律だけは拾えるから、音の数は見えてくる。
モーツァルト 。誰もが知っていて肖像画が音楽室に貼られていて、白い盛り髪のロココ服。仮装パーティのようなアマデウスの世界をぼんやり眺めながら、天才とよばれるひとたちや人が見えないものや聞こえないものがみえてくるひとのことをぼんやりと思う。
凡人は天才に憧れと嫉妬を抱く。
天才は孤独からは逃れられないとすれば凡人は孤独じゃないのかといえばそうでもない。
孤独は誰もがあって、ふとした時にひょいっと顔をだす。気がつかないだけ、気を配る必要がないだけ。

モーツァルト を聞きながら、やっぱりこのひとの言葉は音楽で、どんな生き様よりも雄弁だ。歴史に残るひとが幸せであるってどのくらいの確率なのだろう。現代は歴史に残っても幸せな人生を送れる人も増えているのかもしれない。それは今ここではわからない。膨大な量の書籍や映像や資料が積み上げられていく。アナログからデジタルへと変換されることで消え失せてしまうことはあるのだろう。


モーツアルトというかきっとアーティストと呼ばれる人たちに触れるとその人の見ている世界を覗き見できるんだと思う。その人が見ている世界を知りたいって思わせてくれるひとがアーティストなのだと思う。だから、ある人にとってはアーティストでも、あなたにとってはそうじゃないかもしれない。モーツァルト は気分屋さんだと思う。その感情がキラキラとしていて、だれもがこう言う気分なんじゃないという郷愁にも懐かしさにも似ている、そう、命の喜怒哀楽みたいなものがあらわれているから、歴史を超えて心に響いてくる。そこまで普遍的な、深淵なるものへ手をのばしても、届かないこともある。それでもそこに向かおうとするひともまた、アーティストと呼ばれるのだと思う。そのまた次につながるひとも、アーティストなのかもしれない。またまた次の人も。
世の中ってそういうふうにできている。

モーツァルトのアマデウスを観たら、モーツァルト の曲が近くなった。曲を知ることより人に興味がある。だから演劇をやっているのだけど。
作品至上主義の世界もあるけれど、それを生み出すのは全て人だからしかたがない。
光があまりにもつよすぎると影は濃くなる。
その濃淡のグラデーションを語ること、つまりその周囲の人々の世界を知るには想像するしかない。光があたってしまうひとは、その光を別の誰かのために分け与えることができればいい。だけど、それでさらに光が増すという繰り返しなのだ。
光をもたざるを得なかったひとたち、必死で光をあつめたひとたち。光に対して強欲になれないひとたち。浴びているだけで満足する人たち。だけどそこで気づくのは、光は一つではないということだ。光を一つにしてしまうのは、周囲がそれを求めるからだ。人々が光をひとつに絞り、求めることがなければ数限りない光の礫のひとつにだれもがなれる。
濃度を薄めるというのではなく、誰もがみな、濃い光の礫だということに気づけばいい。手を伸ばせばいい。わたしのこころの赴くままに、光を手に携えて。手放さないように。


憧れと軽蔑は意外にも近いのかもしれない。

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