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黒画用紙とひこうき雲

僕はよく線を描く。気分のままにただ線を描く。一筆書きのようにぐるぐると髪の上を線でどんどん埋めて行く。以前はポストカードくらいの紙に細いボールペンでかいていたのだけど、一度大きな紙にマーカーで書いたらどんどん範囲が広くなって戻れなくなってしまった。今は黒い紙に白いポスカで線を描き続けるようになっている。黒い紙に白い線の組み合わせは真っ暗な空に落書きをしているようだ。

線を描くことが好きなぼくはだれかとだれかとの間に線を引くことが苦手だ。例えば芸能人とか有名人とか、特別な誰かでもない限り、どんなひとでもたいてい同じように接してしまう。本音ばかり喋ってしまう。すると、どんどんだれも近寄ってこなくなっていってしまう。みんな去っていく理由が分からなくて、いつも僕は一人になった。、人と人には境界線があって、そこをむやみやたらに越えてしまうことは暴力だなんてことは誰も教えてくれなかった。ありのままの自分でいつづけることが正義だと思っていた。そう、正義感だった。正しさの暴力をふるうと人は遠ざかってしまって近づけなくなる。そしてぼくはいつもひとりぼっちだった。

ある日、映画館に向かう途中のコーヒースタンドでばったり君を見かけた。何ヶ月ぶりかわからない君の姿に僕は一瞬立ち止まった。コーヒーが出来上がるのを待っている君の背中を後にして、道の反対方向をスタスタ歩いて通り過ぎた。声をかけたかった、でも会いたいわけじゃない、僕は僕の目的がある、君には君の時間があるから、声をかけないほうがいいと自分に言い聞かせながら通り過ぎた。僕は君との思い出を増やすことから逃げ続けている。

僕は愛することは傷つくことだと錯覚していた。これまで誰かを愛した時には自分を傷つけることでそばにいることができた。自分の心を差し出すことがだれかに必要とされることだということに慣らされていた。それ以外の愛し方も愛され方も知らなかった。なによりひとりぼっちになるのが怖かった。そうやってぼろぼろになった僕はまたひとりぼっちになった。

そして君と出会った。君は何も言わずにそばにいて、隣で笑ってくれた。嬉しそうにはしゃいで、カチカチだった僕の心を少しずつ温めてくれた。君は僕に愛することは誰かを傷つけることじゃないと教えてくれた。でも僕は戸惑った。こんなに温かいものは知らない。僕はこんなものが愛だなんて思えない。僕はきっと心を求めるし、いつか僕は君を傷つけてしまうだろう。傷つけないで君のそばにいる方法をまだ僕は知らない。
でもいくら境界線を引いても、引いても、君の言葉はお構いなしで僕に浸透してくる。だから僕はとても怖い。傷つくのも、傷つけられるのも。だってそれは愛じゃないよっておしえてくれたのは君だから。僕は君のように君を愛することがまだできないのだから。

僕はくるっと踵を返して道路を渡った。そして君が去った後のコーヒースタンドでカフェ・ラテを注文した。僕はいまこのくらいの距離がちょうどいいのかもしれない。そんなこと言い聞かせてはいるけど、どうせ僕の強がりとやせ我慢だ。でもかまわない。傷つくことも、傷つけることも今はできない。

空を見上げるとひこうき雲が浮かんでいた。

ーあれ、ぼくは生きている間にあと何回君に会えるんだろう。

そう思った瞬間、僕の瞳から滴が落ちて来た。あとからあとからこぼれ落ちてくる滴にとまどっていたら、お姉さんが大丈夫ですか?と言いながらカップを手渡してくれた。僕はマスクで滴を隠しながら「ありがとうございます」と笑いながら受け取った。

ーあったかいな。

少し塩味がかったラテを口にして、僕はもういちど空を見上げた。




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