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「人形の家」についてつれづれと

私は戯曲を香盤表をつくりながら読むのが大好きだ。大雑把な流れを通しながら俳優たちの動きを眺めていると演劇の舞台裏と表を両方鑑賞しているような気分になってワクワクする。
イプセンの「人形の家」を読み返した。イプセンおじいちゃまは素晴らしい、ということに感動した。
近代演劇を確立したというだけあって、呼び鈴の入ってくるタイミングとか、全幕通しての会話の流れとか、緩急とか読者を飽きさせないタイミングで知らされる新事実とか、今ある舞台の基礎の基礎といわれるものががギュッと詰まっている作品だ。もし近代演劇の歴史とか基礎を学んだり、分析したいと思ったらこの作品がきっと教科書になる。

日本の新劇や「新しい女性」の流れともリンクしているので、日本の演劇シーンからも欠かすことはできない。いま日本に存在するクラシカルな「女優像」と「演劇像」は、この「人形の家」あると言っても構わない。

スキャンダラスだと思われていたこともかっこいいと思える要素だ。
演劇には「濃さ」「濃密」なものがある。毒と言えるものかもしれない。刺激的なもの。変革を与えるものだ。別に演劇だけじゃなくて、癖のある人や面倒くさい人というものは、鋭敏だ。
好まれるもの、心地よいものが好まれたり経済活動に乗っかるものだとすれば、薬、癒し、スローライフという時代の求められるものとは正反対のものだ。

それでも、演劇の核がここであることは変わらない。すくなくとも私はそういう作品を演劇だと呼びたい。この部分をどう扱っていくかが手腕だと思う。
どれだけ淡く、例えばハッピーで可愛らしい作品や、みんなに喜ばれてハッピーエンディングでドラマチックな作品を生み出せる人になれたらいいだろうとおもう。でも、これだけはどうしても変えられないものだ。
でも多分、私の毒はそれほど毒じゃない、という世界もある。もっと毒々しかったり、濃密なものは飽きるほどあって、そこにまではいたらない。
要するに、どっちつかずだから迷うし、迷っているだけだなって。

バランス、世の中は常にバランスで、私の心地よいバランスや好みのバランスで世界が成り立つことができればいいのかもしれない。ある意味箱庭的な世界だ。でもそれって、演劇じゃなくてもいいのかも知れない。家族がいる人は家族と一緒につくりあげたらいいことかもしれない。
家族じゃない人たちと、どう触れ合って、どんな世界をつくりあげることができるのかが演劇なのかな。
濃密な世界観は超絶技巧的な技術の集結とか、密なコミュニケーションによって成立するのかも知れない。
濃密さに焦がれて、リスペクトしていた世代だから、濃かったものが淡くなったり薄くなってしまうことはちょっと寂しくなってしまうのだけど、そう言っていることも退屈になってきた。そんなことはたいした問題じゃない。
何が起こるかわからないワクワク感や刺激はワークショップの方があるのは、リアリティを求めるわけじゃなく、リアルな世界でおこっていることだから。
リアリティというのはもっと本質的なもので、真実以上の真実。ホント以上のホント、ってなんだろう。現実のなかにある核のようなものが、真実。
嘘が裏返ると本当になって、本当だと思っていることも実は嘘になってしまう。その鬼ごっこの繰り返しだなって思う。

はあ、ぜんぜんまとまらない。

人形の家は、素晴らしい戯曲であって、文学作品だと思った。
だからこそ、もう戯曲は文学作品であることはできないのだな、と感じた。計算と論理によって組み立てられる文学作品と主人公のドラマチックさは映像でも、舞台でも確かに王道だ。
だからこそ、それはこと演劇においては一形態のひとつにすぎなくて、これだけで現代演劇の全てを語ることはできないということがクリアになってよかった。
踊る大捜査線の「事件は会議室で起こっているんじゃない、現場で起こっているんだ」というセリフが思い出された。
バランスの問題で、映像作品が8割くらいシナリオや台本によって決まるとすれば、演劇は割合が8割くらい現場や稽古場で決まるのかも知れない。

バランスなのか、作り方なのか。どんどん割合が変化していく。化学薬品を調合するみたいに。

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