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ら抜き言葉

※「高校生に語る」ものだとご承知ください。

今日、「それ食べれる?」と言っている自分を発見し「おお意外と『ら抜き言葉』を使ってるじゃん」と、ちょっとショックを感じてみたりしました。

一時期、「ら抜き言葉」は随分騒がれましたが、今ではもう話題にすらならないといった感があります。もうすっかり市民権を得た?のであって「ら抜き言葉」を使っている自分に驚いているようでは時代遅れなのかもしれません。

■「ら抜き言葉」とは

みなさんご承知のように「ら抜き言葉」とは、本来「食べられる」と言うべきところを、「食べれる」のように「ら」を抜いて言うことです。可能の表現ですね。

でも、「言える」「書ける」とか、普通に「ら」がないじゃんと思うかもしれませんが、すべての動詞がその対象になるのではありません。

いま挙げた「言える」「書ける」は五段活用の動詞ですが、ら抜き言葉で問題になるのは、上一段、下一段、カ行変格活用の動詞で、それぞれ例えば、「見れる」「蹴れる」「来れる」といったものです。違和感がありますよね?

例えば「切る」と「着る」は同じ「きる」ですが、活用がそれぞれ五段、上一段なので、比べてみるとその違和感が分かりやすいと思います。
■「切る」は「切れる」と言って違和感はないけれども、
■「着る」は「着れる」と言うと「ら抜き言葉」と呼ばれるわけです。

五段(四段)活用では、すでに江戸時代にこの言い方が一般化され、一語の可能動詞として認知されてきました。ですから「言える」「行ける」「読める」は、そう言って何の違和感もありません。

■「ら抜き言葉」の背景①

なぜ「ら抜き言葉」が起こったのかという定説はまだないようですが、「~られる」という可能の表現を、同じように使われる尊敬や受身の表現から切り離す意識が働いているということがよく言われます。
・先生が食べられる(尊敬)
・先生に食べられる(受身)
・先生は食べられる(可能)
みんな同じでややっこしい。それで可能を「食べれる」という言い方で差別化するようになったという考え方です。

もちろん「食べることができる」という言い方で区別できますが、それもまだるっこしいっといったところでしょうか。「着られる」・・確かに尊敬にも受身にも可能にも取ることができます。そう言えば、尊敬も「お食べになる」という言い方で「食べられる」という言い方を避けることがあります。

少し寄り道になりますが、少しややこしい説明を加えておくと、もともと「れる・られる」(文語では「る・らる」)には受身、可能、自発、尊敬の四つの意味があります。

大野晋氏は、それは農耕生活の中で自然の成り行きに身を任せる日本人の在り方の反映だと言い、人為、作為的に「起こす」のではなく、自然の成り行きとして「起こる」感覚が「自発」であり、その「出で来る」という感覚は、自然の成り行きで事が成る、すなわち「出来る」という「可能」のニュアンスに通ずる。また、その自然に起こることを身に引き受けねばならないことが「受身」であり、そこに必然的に生まれる畏怖の感覚が「尊敬」に通じるということになる。そんなふうに説明しています。
本来的に、すごく近い関係にある言葉だということがこうした現象を引き起こすのかもしれません。

■「ら抜き言葉」の背景②

また、「ら」が抜けたというより、動詞の未然形に可能の助動詞「れる」をつけた形なのだという人もいます。「食べる」の未然形「食べ」に「れる」がついたという考え方です。

憶測ですが、この発想は最近言われる「れ足す言葉」ということにも影響しているかもしれません。「れ足す言葉」というのは、「書ける」を「書けれる」のように言うことで、既に五段活用の動詞が可能動詞化して「書ける」となったのものに、さらに「れ」を足すことですが、これは今のように考えた場合、「食べ」+「れる」と同じ発想で、「書け」+「れる」と発想するのかもしれません。
でも、一般的ではないでしょう。仮にそういう言葉が定着するとしてもものすごい時間がかかりそうなほど違和感があります。

■最後に

「ら抜き言葉」に話を戻すと、変化の経緯から言えば基本的には「言える」「行ける」「読める」などの先行する可能動詞に長い時間をかけて感化されたのではないかと考えられます。

さらに、「ら抜き言葉」は、動詞全般が五段活用に近づき、統合されようとしていく大きな流れのひとつの現象だと考える国語学者もいて、言葉は動く生き物なんだとつくづく思ったりもする次第です。

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