twitterアーカイブ+:映画『劇場版ポケットモンスター ココ』感想

前夜

 サトシが父親についてこれまで言及しなかったことには理由がある。サトシが旅の身の上であるというのが、その理由だ。ポケモンとは心的過程であるというテーゼに立って考えるならば、父親即ち「父の名」とはサトシが踏み込んでゆく世界の秩序そのものなのであり、キャラとして存在する必要が全くない。

 その意味で、サトシ(レッドも)の父親の役割を何らかのキャラクターに負わせるなら、それはポケモンの分類学を提唱しポケモン世界の背景に秩序を想定したオーキド・ユキナリ一人で十分だ。初期の劇場版で、オーキドがよくサトシのママと行動を共にしているのも、父性原理と母性原理の協働を表す。

象徴論的な言い方をすれば、人間としてのサトシの父はポケモンの存在とサトシ自身の旅立ちによって、物語開始時点で最初に「殺されて」いる。キャラとしては殺され、より抽象的な規範へと形を変えたのだ。トーテムとタブー。ポケモンの存在とサトシの旅立ち、その両方を同時に象徴するのが、サトシのピカチュウであろう。

『少女時代』[1]より

 従って、名探偵ピカチュウのオチは、非常にキリスト教圏的なつまらないオチではあるものの、別の一面では理に適っている。

 サトシのママは、旅の出発点であり帰るべき場所として初期にはよく参照されたが、旅が長くなりサトシが成長すると、背後ではなく前方に、ゆくべき地を見出すようになる。海から上がって大陸を渡り、また海に没するペンギン・ハイウェイのように。その、生の果てにある母性の象徴が、ホウオウである。

 ピカチュウとサトシの望みなき関係については、小説『迷宮にて、ピカチュウ』にて少し触れたためご高覧いただきたい。これはpixivに上げている作品の中でも評判がいい。長い伝統を持つサトピカ(ピカサト)の可能性を思う。

 アルトマーレでピカチュウが直面した苦しみは、ひょっとするとロケット団のニャースがその十年前に通過した地点なのではないかと思うことがある。

映画

「劇場版ポケットモンスター ココ」を観てきた。これは、歴代ポケモン映画ランキングを大きく塗り替える傑作。人語に頼らない感情描写が極めて豊かで、全ての描写に明確な意図があり、しかもそれが観客に自然に伝わる。その上で台詞回しも安直でなく、説教臭さもない。素晴らしいバランスだ。

 確かに伝統的な「悪い人間の機械が暴走」シナリオを踏襲してはいるが、それをn番煎じだと感じさせない表現と伏線の巧みさがある。むしろ使い古された展開でも演出技術次第でかくも豊かな鑑賞体験になるかと驚く思いだ。ロケット団もいい仕事をする。全体として、実に芸の細かい映画。

 特筆すべきは、やはりココが初めて人間社会に触れる一連のシーンだろう。事前にザルードとの会話で仕込みをしておいてからの、サトシの手。ココの急停止と共に劇的に強調される、拘束の道具であるモンスターボール。「あっ……これは……」という気まずさは、諸君もきっと同意してくれるものと思う。

 観客を子供だとナメてすぐに台詞で状況説明をしてしまおうとする誘惑に屈することなく、構図とカメラワークとココの身振り、沈黙の間、そしてサトシのピントのずれた台詞までもを使って、雄弁に「衝撃」を印象付ける。ポケモンが、真剣にアニメーション表現をやっている。やれ嬉しや。

「みんなの物語」では、サトシはやや遠景に退いて、思想的指導者としてリサたちを鼓舞する役割に甘んじていた。ココではサトシとピカチュウにも見せ場がある。といって、10まんボルトと身体能力で都合よく問題を解決するデウス・エクス・マサラではない。実力行使ではあるのだが……

 あの戦い方は、単なる高いレベルのみでなし得るものではない。当然「アイアンテールで斬れる」という判断が前提ではあるが、それを届かせたのは、ピカチュウが多くの人間やポケモンと出会い、様々な状況のバトルの中で、初対面の他者を適切に信頼して共闘する経験を積んできたからだ。旅が育んだ力だ。

 技と言えば、ココの技についても語るべきことがある。そもそもザルードがあれを「技」と呼んでいたこと自体が重大な情報だ。「技」とは何だ? 生存競争の技術? ポケモンバトルという競技のための技術? あるいはポケモンの行為全てが技なのか? では、ミュウツーの逆襲で描かれたことは?

 ミュウは「技など使わず体と体でぶつかり合えば」と言った。一方、「たいあたり」は技である。技の定義は判然としない。だが、技や捕獲を人間がポケモンに強いたものではなくポケモン本来の性質だと考える立場、いわば「内在説」は近年影響力を増しているように思える。

「みんなの物語」では、見知らぬ人間に催事のために一時的に捕獲されることに同意したポケモンというものが出現した。確かにニシノモリ博士によれば体を圧縮することまではポケモンの生得的な性質なのだが、入れ物がモンスターボールであることの持つ意味合いはもっと複雑だ。

 技や捕獲はメタ的にはゲーム設計の都合だが、そう開き直ることが許されないほどに、ゲームの中のポケモン世界と我々の世界は交じりつつある。ポケモンたちは我々メタ階層のことをどう見ているのか、という問いが浮かび上がるようになった。それへの回答としての内在説が今後どう転ぶのかは読めない。

 ココが技を使えたことに関しては、ザルードが事前に技の原理を説明しているため違和感はない。この技をあの状況でココが使えることには何の不思議もなく、むしろ「使えた」という事実が一つのメッセージとなっている。世界への干渉力の源はアイデンティティと意志であって、種別ではないようだ。

 我々はココとザルードたちの言葉を、視点がサトシにある時を除けば、人語に翻訳された形で聞く。過去の映画がただの安直でポケモンに人語を話させていたのと異なり、ココでは人語にも進行の都合以外の理由がある。即ち、ポケモンの世界(森)にも人間のそれと対等な秩序があるということを示す機能が。

 ココでは、ザルードたちの事情を人間の観客に十分理解させることで、人間とポケモンを全く対等の「社会」を持ったものとして位置付けた。人間の側もただ強欲なばかりではなく、森とは違う形で異種族の共存を果たしている。これは人間と動物の物語ではなく、異なる社会集団同士の摩擦の物語なのだ。

 ココの筋書きは、確かに一見すれば自然対人間という古典的な構図。しかしポケモンでそれをやる場合、人間の世界も画一的な人間中心主義ではあり得ない。ポケモンも完全に美化などされない。その上で、だ。ポケモンというコンテンツは、実に二十五年をかけて「共存」の物語を積み上げてきたのだ。

 森においても弱い者が虐げられる醜状がある。「悪い人間と正しいポケモン」という議論はBWで既に終わっている。我々はもう、ポケモンを単純に動物として描写するわけにはいかない時代に生きており、首藤剛志の看破した「人間と別種の人間」モデルは今やポケモンの全コンテンツに浸透した。

 森の住民が、文明礼賛ではなく共存の思想を人間から学ぶという珍しいケース。それは、映画を観る我々の世界にもまだ希望があるというメッセージなのかもしれん。ココがそれを学んだ外の世界――即ち旅――即ち出会い――即ち、夢と冒険とポケットモンスターの世界に、希望はあるのだ。

 故に、「劇場版ポケットモンスター ココ」。AG世代以降のポケモン映画の中で疑う余地なく最高傑作であり、旧無印の五本と比べても何ら遜色のない、二十一世紀の誇り。ココ公式広報のクソさに騙されるな。映画を観てくれ。我々の歩いてきた歴史の到達点を、共に目撃しよう。

 だが……この映画を観た後でとうちゃんザルードを受け取るのは、倫理に反するのではないか? 図鑑だけ埋めて逃がすか……?

 そう言えば、無印1話からココにかけてサトシの声には明白な変化があるが、サトシのママの声は全く変わっていないように聞こえるのは恐るべきことよな。

 ココは傑作だが、サトシの父親のくだりは観る前に評した通り完全に蛇足。教訓としてもサトシの人物描写としても物語から浮いており、この台詞はココの行動にも観客の印象にも大して効いていないと私は感じる。素直に親の愛に言及するためにサトシのママの話をすればよかったと思う。

 ポケモンの三大要素といえば「旅」「図鑑」「バトル」だが、これら全ては魔術の伝統においては男性原理に属する(むしろ、これら三要素は男性原理なるもののほぼ全てだ)。だが、それらが非日常にふと緩んだ瞬間に、反対側で支える女性原理が描かれてこそポケモン世界は調和するのだ。

 旅を支えるものは故郷の家であり、全ての個を捨象して相対化する図鑑の暴力からトレーナーを守るのは「あなたがいるから世界があるの」と言った母親であり、競争を否定したサトシを許したのはポケモンたちの涙である。劇場版は女性原理に駆動された時に傑作となる。そういうふうにできているのだ……



[1] 操刷法師『少女時代』、笹塚迷宮、2020


〈以上〉

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