twitterアーカイブ+:映画『名探偵ピカチュウ』感想

「名探偵ピカチュウ」を観てきた。ストーリーはアニメ映画版並に単純だが、ポケモンの造形をはじめビジュアルが良いのであまり気にならない。プラズマ団の理想そのもののような都市の裏路地で違法バトルが開催されているような庶民生活の泥臭さは、確かにアニメの延長では描けなかっただろう。

 ポケモンはもはや採集されるべき昆虫ではなく、ポケモン世界はもはや理想的な夢と冒険の世界ではない。我々は、「ポケモンと人間の共存」という巨大な流れの中にいる。フウラシティやライムシティのような景観は、この流れの必然。生活にポケモンが浸透する、だが生活とは時に仄暗いものなのだ。

 私は以前「みんなの物語」を劇場で鑑賞した時、「これは社会契約だよ……」と言いかけた。人間の生活にポケモンを導入するには、何よりもポケモンとの合意を形成する必要があるのだ。ポケモンは知能ばかりでなく、人間を脅かす力をも持っている。人間社会に人間の奴隷を導入するのとは訳が違う。

 ライムシティのポケモンの方がフウラシティよりも、我々の言う「動物」に近く見えるが、種族によって差もあるのだろう。ライムシティのカイリキーは交通誘導ができる程度に知能があるようだが、この腕力と併せれば人間にとっては明らかに脅威だ。奴隷労働を強いるわけにはいくまい。

 恐らく田尻智が最初に意図しなかった、この「共存」の形は、二十年前から用意されていた。人間を脅かせる力を持ち、人間と意思疎通ができる知能を持つ、そんな生き物が、虫籠の昆虫の扱いに甘んじるはずがない。その矛盾を暴いたのが首藤剛志だった。今年がミュウツーイヤーであることには意味がある。

「ポケモンと結婚した人間がいた、昔は人もポケモンも同じだったから普通のことだった」と、ミオ図書館の文献にある。しかしこれは決して過去の話ではない。社会の中での立ち位置が対等に近付いてくれば、必ず「合一」という欲望が起こる。今や、マサキの頃とは違う。人は自ら望んでポケモンになる。

 首藤剛志が看破した真実とは、「ポケモンは、人間とは違う能力を持った、もう一つのヒトなのだ」ということだった。人間の持たない技、生命力、美しさ。人間が自然にもはや脅かされないという錯覚を得、それでいて人間自身の力にも行き詰まりを感じた時、そこに対等な存在としてポケモンがいたなら。

 一言で言えば、双方の関係に「余裕」が生まれた時に初めて、合一という欲望が起こる。これについて考える時、私はポケモンとして育てられた一人の少女のことを思わずにはいられない。ルザミーネのケースは、特に何かを目的とした合一ではなかったが、それ故に最も純粋だった。

 名探偵ピカチュウの話からやや逸れたが、全体的に好ましい映画だった。アニメ映画版にありがちな説教臭い台詞(ボンジイ!)もない。ピカチュウが名探偵らしいことを何もしていないが、探偵映画とは大体そういうものだ。ライムシティを見物できただけでも観る価値があったと言える。

 私は字幕で観た。ミュウツーの声にはエコーがかかっており、男の声と女の声の重ね合わせのように聞こえるが、まあ二十年前の自己存在の懊悩を一旦忘れて「得体の知れないエスパーの怪物」感を演出するには良い手段だと思う。実際、映画で見せた能力は「私は誰だ」のミュウツー像には似つかわしくない。


 私は中沢新一と同じ立場を取って、ポケモンは我々プレイヤーの心的過程に他ならないと考えているし、たとえ「ポケモン世界」という言い方を使っても、プレイヤーの暮らす世界を「ポケモンのいない世界」と呼ぶことはない。日本の自然が八百万の神であるように、全ての草むらはポケモン“である”。

 従って、私は『名探偵ピカチュウ』の鑑賞後に客が陥るとされた「ライムシティロス」なる症状を、ある種の相貌失認とみなした。ライムシティが失われているのではなく、ライムシティを知覚する機能こそが失われているのだと。映画はそのリハビリとしては機能しなかったことになる。


〈以上〉

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