twitterアーカイブ+:映画『ひるね姫』感想

「ひるね姫」を観てきた。各シーン毎の作画は良いしココネも可愛いが、シーンの繋ぎ方・話の進め方がとにかく雑。夢と現実がリンクしている事を自覚する辺りから展開に飛躍が多くなり、分からなくはないが理解に数秒のラグが生じるため、もう少し丁寧な説明や描写が欲しくなる。

 現実のシーンから夢のシーンに入るところがいつも唐突なのは意図しての事だと思うが、それが連続するとメリハリがなく感じる。ストーリーは良く(古典的ですらある)、純粋に進行・構成に難がある。「結局何がどうだったのか?」などと問い始めれば、これは「君の名は。」の百倍分かりにくいと思う。

 飛躍ややっつけ仕事めいたシーン展開があっても、会話のリズムや音楽のパワーで覆い隠して押し切ればよいのだが、それもあまりない。「オタクが喜びそうなシーンのパッチワーク」という印象が否めない。だがオタクが喜びそうなシーンのパッチワークなので、笑えはする。

 この手の、夢と現実が交錯するタイプの作品において、「なぜ交錯するのか?」(または「なぜそこで都合良く交錯するのか?」)と問う事には何の益もない。合理的な社会に「外側」があるという希望、何の脈絡もなくてもやってくる救い、そうしたものを求めない人間は幸福である。

「夢・幻想・記憶の世界と現実との間に照応関係を見出し、夢の世界に積極的に干渉する事によって現実に変化を及ぼす」という行為は立派な魔術である(これは作中における「魔法」とは異なる、より普遍的な概念である)。個人の抱える不幸の多くは、現実と幻想を頑なに峻別する事から始まるのだ。

 ひるね姫についてもう少し言えば――観ていて「これは何がどうなっているのか」と思うとすれば、それは客観的な第三者視点を想定してしまうからだ。これは、観客がココネに十分に感情移入できていれば軽減されたはずの問題だ。少なくとも夢と現実は、ココネにとっては連続的で整合しているのだから。

 感情移入の欠如は、ココネより先にエンシェンという異端者を出してしまった事にもよるのではないか。或いは、ココネが夢を見ている間現実世界の人間も全て夢に取り込まれ、世界が切り替わると同時に認識と記憶も滑らかに切り替わっているという解釈も成り立つが、普通の観客にこれを要求するのは酷だ。

「私にとってそうであるという、ただそれだけで十分」という認識が広まる事を危惧する者はいるかもしれない。だが、世界は初めからそうだったのだ。科学がそれを打破できると主張する事、及び科学がそれを打破するべきだと主張する事は、ある種の自己欺瞞であり、誰も幸福にしないと私は考える。


〈以上〉

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