twitterアーカイブ+:映画『Joker』感想

『ジョーカー』を観た。私はバットマンの予備知識が全くないのだが、音楽の使い方は良かった。しかし……分からんな。この映画のどこに、そこまで騒ぐほどの「衝撃」がある。正義は人を見捨て、見捨てられた人は正義を見捨てる。当たり前のことであり、繰り返し言われていることだ。

 悪が珍しいか? 人の道を踏み外すことが珍しいか? 酒鬼薔薇聖斗! 『黒子のバスケ』脅迫事件! 時代はずっとその可能性を示してきたのに、ここまであからさまに見せてもらわねば何も分からんか? よもや『天気の子』を絶賛しながら、『ジョーカー』ではトイレで泣いたなどという者はいまいな?

 人間の悪役が悪に転ずる背景などというものは洋の東西を問わず大抵このパターンだが、そのような事情あって悪役に回っている者を「ダークヒーロー」と呼ぶのは適切ではないだろう。「ヒーロー」という響きのよいラベルを通してでなければ彼の事情を直視することのできない、観客の弱さの表れだからだ。

『ジョーカー』を子供に見せるべきでないという論調には賛同しない。性表現の場合と同じだ。人間の心と衝動にはこのような形もあり得るのだということを学ぶことは、むしろメタ認知を鍛え自分を律することに資する。重要なのは触れる作品の多様性であり、特定の作品の是非を論じることに意味はない。


「お前はジョーカーにはなれない、せいぜいピエロのモブ止まり」という言説があるのか? 救い難い愚かしさよな。そのようにして、またしても自分と凶悪犯罪者の間に線を引き、彼らを分析することをやめ、真に逸脱を生む要因を温存し、社会秩序を危険に晒し、そして人間の可能性を狭めるのだな。

 諸君がジョーカーになれないのは、既に別の誰かがジョーカーになってくれたからに過ぎない。後出しの奴だけがモブでいられる。ババ抜きでも、ジョーカーを引いて初めて、他の札が安全だったことが分かるだろう。アーサーが起たなければ、別の誰かが何らかの形でヴィランになったに違いないのだ。

 どこまで当事者意識を持つかによって見方が全く変わるという点では、『ジョーカー』と『天気の子』はやはり同質の作品よな。そして、当事者意識が葛藤を引き起こすような問題とはほぼ「正しくない選択」の問題に限られるから、正義の副作用が取り沙汰されるこの時代には作られるべくして作られる。

 だが、どんな駄作でも、どんな過激な作品でも、次のことは変わらない。即ち、新たに一つの物語を心に取り入れれば、その分、あなたが現実の世界で、衝動的かつ自分でも不本意な行いに振り回される機会は減るということ。どんな作品でも、あなたが何歳であっても。それが知るということだからだ。

「既に別の誰かがジョーカーになった後の環境」なら、そりゃあもちろん諸君はせいぜいピエロのモブ止まりよ。それともフランクリン・ショーの観客かだ。バットマンにはなれない。何故なら、幼い子供でもない限り、人は自分の立場を早く表明せねば・事態に反応せねばという焦りに駆られるからだ。

 そのような時、人は既にある分かりやすい立場しか目に入らず、その中から選ばされる。バットマンやジョーカーはそれらとは違う立場、自分で在り方を模索し、決めて、切り拓く立場だ。そうせざるを得ない切実さがある人間は少ない。少ないが、タイミングさえ合えば誰でもその少数になり得るのだ。


〈以上〉

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