twitterアーカイブ+:書籍『創造と情報』感想

『創造と情報』(道躰章弘、水声社)を読み終えた。現代形而上学叙説と銘打っているが、護教書である。形而上学史をある側面から概観する役には立つが、肝心の著者の主張は誤った自然科学観に基づいてキリスト教以外の哲学を排撃するに留まる。かわいそうに、というのが正直な感想だ。

 私は著者の主張(つまり、キリスト教神学)のうち、宇宙は被造でありまた今なお不断の創造の渦中にあるという部分には同意するが、造物主が人格神であり創造が定向的であるという部分には同意しない。しかし著者はこれらの主張を、現代実証科学の成果と称するものによって「論証」しようとする。

 著者は、ビッグバン宇宙論と熱力学第二法則に基づいて宇宙が有始有終なることを説き、次いで、地球生物の遺伝情報の複雑化に基づいて創造の業が今なお続いていることを説く。結論はいい。問題は論法である。そもそも実証科学は形而上学的分析に利用し得る代物でないということを著者は知らないのだ。

 まず、ビッグバン宇宙論と熱力学第二法則から、宇宙が自己完結した永遠の存在でないことを説き、これとパルメニデスの原理(「絶対無からは何物も生じ得ない」)から、宇宙は自己発生したのでなく創造されたと飛躍する。著者は宇宙の外部を支配する物理法則(量子場)の存在を検討しなかったらしい。

 より深刻なことには、著者は宇宙が約百四十億年前に開闢したことを「現代人の常識、所与である」と繰り返し、あまつさえ「物理学は実在論である」とまで言って観念論を排撃する。しかし物理学は実在論ではないのだ。著者は物理学がいかに多くの取り決めのもとに現実の近似値を提供しているか知らない。

「科学というのは、自然観察における民主主義だ」
「客観性と再現性と本気で追求しようとしたら科学は何一つ証明できない」 「追試験をやった奴全員が虚言症だったら?」
「なにしろ例外の可能性は無限に存在するからな。科学がアキレスなら真理が亀さ」
――『イリヤの空、UFOの夏 その3』[1]

 実在論も観念論も、完全に論証することも論駁することもできないということを理解しない者ほど、形而上学の議論に実証科学を援用したがる。それはチートのようなものだ。一見便利だが、使えばバグる。参考文献のうち、自然科学の論文が(私の見る限り)クラウジウスの一本のみという時点でお察しだ。

 創造の定向性についてはもう少し単純だ。地球生物の遺伝情報が複雑化の一途を辿っていることについて、著者は「これは過去からは原理的に予測不可能な、『それまでの宇宙になかった情報の出現』であり、機械論的な物理法則ではなく神の自由意志の為せる業である」と説く。複雑系の勉強をするべきだ。

 これは畢竟インテリジェント・デザイン論に過ぎない。遺伝情報が順次神から送信された代物であり、同様に宇宙の全ては今もなお人格神の自由意思による「新なるものの創造」であると考えるのは勝手だが(私も部分的に賛同するが)、科学がそれを支持することは絶対にない。

 著者の言う「現代科学」なるものはせいぜいが1960年代の知識であり、そこには量子論もインフレーション仮説もない。現代の科学は亀ならぬアキレスとしての立場をますます堅固にしている。通俗的おはなしに加えてその謙虚さを少しでも学んでいたならば、450ページ超のこの本は200ページで済んだだろう。

 そういうわけで、苦しい読書体験を終えた私は次に『自然現象と心の構造』(C.G.ユング、W.パウリ、海鳴社)を手に取るのだった。形而上学あるいは心理学のアイデアを物理学に援用するのはよいのだ。援用しただけでは何も言えはしないことを誰もが分かっているからだ。


[1] 秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏 その3』、メディアワークス、2002


〈以上〉

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?