カード制作と安心についてのメモ

カードは安心材料

 急に何だという感は否めないが、カードが好きだ。正確には、カードというジャンルのエッセンスのひとつであるフレーバーテキストやイメージワードの類いに、長年頑固な執着を抱いてきた。

 カードというものは手持ち無沙汰を回避できる。あの手のひらとポケットに収まる長方形はとても良い。どこでも取り出せる。好きなだけ眺めていても電池が減ることもない。本も良いが、カードはより少ない情報から想像力を膨らませる。
 縁をなぞったり、表裏ひっくり返してみたり。暇つぶしにシャッフルしたり、タワーを作ったり、暗号や秘密のやりとりに使ったり、蒐めて並べたり、占いに用いたり、そしてゲームをしたりする。カードが好きだ。実生活において活用する色気のないカードも、じつは過度に増えない限りは、時々全部取り出し並べて眺めるのが面白くて好きだ。

 そういうツールの良さとは、つまり所持者の心に安心感を宿すことだと思う。何もしていないと不安になる。何もしていないとあやしまれる。人の目にさらされる社会のありとあらゆる場所で、カードはそのひとのお守りとなる。「トランプタワー?」などと、誰かが興味を持って話しかけてくれることもある。

 イラストや写真、テキストなどの視覚情報が印されたカードは、また、聴覚や脳機能の面でもっとスムースに物事を運びたいと願うひとびとにとっても安心材料である。以前職場で視覚情報カードを作った。当事者と買い物に行くと、カードを指で示してスーパーと薬局どちらに行きたいかを教えてくれる。出掛ける前にカードを忘れると、走って取りに戻る。

 それほどの重要性はなくとも、カードに秘められた潜在的な力はあなどれないし、創作小説を書籍にする時も思ったが、形になるというのは、脳内で思考や想像として曖昧な広がりをもってばらばらに浮遊していたものを、一気に圧縮して現実に留めることだ。形あるものは、他者も見ることができる。ものすごい視線求心性である。

制作の順序

 さて、脱線した。そういうものを自分で作ると決めて、それではカードのいちばんの魅力を何と定義するだろう。まず、集めていたい、まとめて眺めていたいと思えることではないだろうか。全体の統一感はあれど、一枚として同じものがないということ。違いを探して楽しむこと。一枚一枚を愛せること。

 今回のカード制作企画においては、内容云々より先にまず、自分のなかにある「こういうものがほしい」という“欲”を認めてそれに従う姿勢を確立させたいと思う。それでこそ、自作のカードに安心と信頼を寄せることができるはずだ。こいつと一緒なら大丈夫と。

 そこで初めてどのような作品にするかを考えていく。

 カードには作風が欲しい。雰囲気、秩序、ムード、世界観、統一感。そういったもの。頭の中にぼんやり理想があっても染み出して具現化してくれるまでに時間がかかる。できるならばアナログのテイストで描きたい。他者を特定の感情や意図に導けるよう注意深く絵を描いた経験はほとんど無い。よって、イラストにはテキストよりも多大な時間をかける必要がある。形あるものはのっぺりとした色調、空間は淡々としたイメージだ。

 オーケー。では次に仕事量を考えよう。何枚描く? 極めて重要な選択だ。予定を仮に50と大幅にとって、多少のトラブルで規模を縮小することになっても融通がきくようにしよう。私は遅筆だ。描きあがるのに最初は時間がかかるはずだ。1枚につき1週間とみて、月4枚。そのペースで描けるとして、50枚描くには少なくとも1年は制作期間が必要だ。

 アイデアを考えたり、絵を練習したり、色々なひとに話を聞く準備期間も必要になるし、その間生活を並行してゆくことになる。風邪もひくだろうし、制作の気分にならない時もあるだろう。周りで何が起こるかもわからない。猶予期間はプラス数ヶ月〜半年までとしよう。あまり長いスパンで設定してしまうと締まりがなくなる。1年から1年半だ。

 しかし、幸いにもこの企画は遅れたり潰れたりしたとしても誰にも迷惑をかけない。だから100パーセント、自分の技量や意欲との相談となる。

 私生活においてはこの半年で大きな変化があったけれども、どうやら創作をおこなうことに関しては継続可能なようである。今の世の中では、自分は相当に恵まれているといっても過言ではない。とはいえ、状況はいつ何時どのように変わるか分からない。明日のことだって分からないのだ。だから、今できることをやる。それがこの先の不安に打ち勝つ方法だ。

安心について考える

 自己と他者の安心について考える創作物。安心できる創作物。安心材料となりえる創作物。そういうものを作っていこう。

 私の創作のテーマとして初期から含まれていたのは、不安な誰かをどう安心させるかであった。これは自分の職業的な影響や他者から受けた言葉、学生時代に観た映画などによって関心を呼んだテーマで、自分にとっての対人関係の指標でもある。

 これは職場で出会った言葉である。「●●(人名)さんが安心できないのなら、△△(規律に従って行う作業)する必要は無いと思います。」

 自分にも他者にも当てはめて考えてみたい。安心できないのなら、不安になるのなら、全体としてそうすべきとされていることでも、行う必要はない。ルールを個人に合わせるべきだ。……これは、全体の「和」を重んじる伝統的な環境であればあるほど軋轢を生みやすい、リスキーな発言であったと思う。事実、「皆がルールを守らなければ他の人間の不満につながる」という意見が優勢であった。この状況で、私は『Imaginary Brother & Man Machine』のことを考えていた。

 Imaginary Brother、架空の兄は《安心感》を司る精神生命体で、〈この世の摂理〉に従って人間(※架空の兄ら〈概念体〉は、ヒトを〈無限の弟妹たち〉と表現する)に安心を与えてゆく。

 Man Machine、機械の男はヒトだが、いつの頃からか自分はアンドロイドだという思い込み・歪んだ信念にとらわれ、ほぼ家屋に篭って生活している。幻聴に悩まされ、不安になることもしばしばある。

 かれらは、安心を与える者、受け取る者の関係である。この関係性はキャラクターbotを作った当初から念頭に置いていた。本当は、かれらは別々の設定の創作に登場させるつもりだったが、Twitterという場で出会い、交遊するうちに、互いにかけがえのないコンビとなったのである。

 安心というテーマを創作の主題に転用したのも、「安心について興味のない人間は居ない」だろうという普遍性に乗っかった形だ。有限の時間を穏やかに、何かに脅えたり苦しんだりせず生きたいひとがほとんどのはずだ。なかには自暴自棄になったり、信じられないような考えのひとも存在するが、かれらもまた興味を持たないとは言い切れない。

 人類共通の創作・物語テーマといえば鉄板は恋愛や友情なのだろうが、そこにだって、相手への安心感、信頼感をどう築くかが必ず絡んでいる。どんな関係性でも、傍に居て欲しいのは安心できるひとだ。安心にも暗い・明るい、堅い・柔らかいなどがあって、そのバリエーションがさまざまな人間模様の根幹にある気がしている。

 ひとは安心したい。私もだ。だから安心できるものを作ってゆく。それはひとまず、硬い触り心地の数枚のカードである。

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