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国籍や国境を越えたその先 ②ハプニング

①   のつづき

いま(平成を経て令和となった今)では「国際」と付く中学高校や「国際学部」を設ける大学が多くなったが、私が小学校に通い始めた昭和50年代(1975年頃)はもちろん、高校受験や大学受験をするようになり、県内外の学校を知るようになっても「~国際」という名の学校は無かったと思う。
それだけ日本が国際的になったかどうかは別として、昭和の頃に比べると外国籍の人口も増え、学校生活を外国籍の子と共にする機会が増えた今日、自分と異なる国籍や肌の色を持つ者への偏った見方(偏見)は和らいでいるように思うが、昭和の時代は決してそうではなく、戦乱期に生まれた親の世代(昭和20年前後生まれ)ほどではなくとも、私が生まれた世代(昭和40年代生まれ)でも、まだまだ外国籍への偏見、不理解、無知は強かったと思う。
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今は五十路を越えたオッサンの私も、自分のことを〝ボク″と呼んでいた少年時代や青春時代があり、そのボクが初めて「中国人ということだけで人からバカにされたり、からかわれたりする」体験をしたのは小学5年生の時。
通っていたスイミング教室で進級し、ひとつ上のクラスに入った初日、名前を点呼されて「ハイ」と大声で返事した次の瞬間、隣にいた少年が、
「え!なにそれ!お前の名前、ソウっていうん?変な名前ぇ~」
と大声で言うと、周りからドッと笑いが生じ、
「ホンマや、ソウ、やって、あっそう」
アッハッハッハと嘲笑が良く響くプール室内全体に轟いた。
あの時のショックや恥ずかしさときたら、
「おい、出てるぞ!」とコーチに言われてもすぐには気付かず、
「おい、出ちゃってるぞ!」と股間を指差されてようやく、片方の金玉が競泳水着からはみ出す「はみチン」のハプニングどころではなかったように思う。
それ以降(ハプニングではなく、名前をからかわれて以降、ですよ)もスイミングに通うたびに、
「おい、こいつの名前ソウっていうねんで、変やろ」
と執拗に更衣室などで名前のことでからかわれ、点呼の度に笑われるボクはスイミング教室に行くのが嫌になってしまった。
スイミングには行かず、ぶらぶら意味も目的もなく歩いたり公園で時間をつぶし、帰宅する前に公園で髪の毛を濡らして、いかにもスイミングに行ってきたようなふりをして帰宅したが、小学5年のボクは水着やタオルを濡らすことまで頭が回らず、
「あんた、ホンマにスイミングに行ったんか?」と聞かれ、
「うん、行った」と嘘をついたが、すぐに嘘はバレた。
嘘をついたことが母だけで済めばよかったのだが厳格な父にもチクられ、習い事をズル休みするとは何事か!と一喝されたあと「そんな根性無しでどないするんや!」と頭をこつかれるおまけ付きの苦い経験だった。
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その後もスイミングに行ったり行かなかったりが続き、徐々に行かない日の方が多くなったが、休んだ日は水泳パンツとタオルを濡らることは忘れずに帰ることで、親の目をごまかした。
結局、両親には「名前をバカにされたり、からかわれるのが嫌でもう水泳をやめたい」という本当の理由は一度も告げぬまま、中途半端な形でスイミング教室に通うのを止めた。
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小学5、6年の頃から中学に入ってからもしばらくの間、漠然とではあるが、自分の苗字が漢字一文字ではなく、二文字だったらどんなにいいか!と二文字の苗字への憧れを抱きつづけていたことを、いまではなんだか恥ずかしさも入り混じった気持ちで懐かしく感じる。
ちなみにボクが憧れた二文字の苗字は自分のヒーローだった『あしたのジョー』の「矢吹」や『宇宙戦艦ヤマト』の「古代(こだい)」、さらに阪神タイガースの「掛布」だったが、兎に角どんな名前でもいいから二文字の苗字ならバカにされないのになぁ、と強く思うほど「曽」という苗字を誇りに思えなかったボクがいた。
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もうひとつ加えると、マラソンで活躍された双子のランナー・宗兄弟。
同じ「ソウ」という音の苗字を持つ日本人がいることをマラソンの中継やスポーツニュース、新聞で知り、活躍する姿に勇気をもらえたことも覚えている。
大人になり、ランニング仲間に、
「ソウと申します」と挨拶すると、
「え?!双子の宗兄弟の弟?」と突っ込まれると、なんだか嬉しいのもそのせいかもしれない。
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今回②は国籍という存在を感じ始めたばかりの小学生のハプニングで終わりとなります。次の③以降で中学と高校時のハプニング(もうはみチンはございません)を書こうと思っています。

①と②をお読みいただき、ありがとうございました。

日本海で泳ぐ小学生のボク。海は広くて自由に泳げるのがいい。


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