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暇と退屈の倫理学 国分功一郎

序章 「好きなこと」とは何か?
我々は妥協を重ねながら生きている。
哲学とは、問題を発見し、それに対応するための概念を作り出す営みである。
問題が何であり、どんな概念が必要なのかを理解することは、人を、まぁいいか、から遠ざける。
不思議だったのは彼が楽しんでいるようには見えないことだった。彼の声は明らかに周囲にいる人たちに向けられていた。それは何というか、自分を見てほしいとの思いが込められた声だった。
俺が彼らのことをこんなにも鮮明に記憶しているのは、間違いなく、自分は彼らにどこか似ていると思ったからだ。
人類の歴史の中には様々な対立があり、それが数え切れぬほどの悲劇を生み出してきた。だが、人類が豊かさを目指して努力してきたことは事実として認めてよいものと思われる。
人類が目指してたはずの豊かさ、それが達成されると逆に人が不幸になってしまうという逆説である。
豊かさには2つの意味がある。1つめは金銭的な余裕だ。もうひとつは時間的な余裕である。
余裕のある生活が送れるようになった人たちは、その余裕を使って、それまでは願いつつもかなわなかった何か好きな事をしている。
では、その好きな事とはなにか?やりたくても出来なかったこととはいったい何だったのか?いま余裕のある人たちは、その余裕を使って何をしているのだろうか?
現代人は自分が何をしたいのかを自分で意識することが出来なくなってしまっている。
資本主義がつけこむ。文化産業が、規制の楽しみ、産業に都合の良い楽しみを人々に提供する。
暇の中でいかに生きるべきか、退屈とどう向き合うべきかという問い。
生命ほど尊いものはない、という原理しか提出しかできなかった。
没頭に渇望する。

第一章 暇と退屈の原理論
狩りをしている人が欲しているのは、不幸な状態から自分たちの思いをそらし、気を紛らわせてくれる騒ぎに他ならない。
ウサギが欲しいから狩りをするのではない。
退屈する人間は苦しみや負荷を求める。
退屈とは、事件が起こることを望む気持ちがくじかれたもの。
事件とは、今日を昨日から区別してくれるもの。
生きることは退屈との戦い。

第二章 暇と退屈の系譜学
氷河期が終わりを告げた約一万年前、温暖化が進み、中緯度体が森林化してくると、この生活戦略は大きな変更を迫られる。温帯の森林が拡大してくれば、それまで狩ってていた有蹄類は減少する。森林では百メートル先の獣を見つけ出すことすら困難である。「中緯度地域における湿帯森林環境の拡大は、旧石器時代における大型獣の狩猟に重点を置いた生活に大きな打撃を与えたに違いない。」

第三章 暇と退屈の経済史
済むという形式を選択したからといって、退屈が運命づけられるわけでもない。…だが、暇を独占していた有閑階級が何らかの知恵を持ち得たという事実は注目に値する。

第四章 暇と退屈の疎外論
贅沢とは、過度の支出を非難する意味が込められている。必要の限界を超えた支出が無駄だと言われているのである。
必要なものが必要な分しかない状態はリスクが極めて大きい状態である。
必要なものが必要な分しかない状態では、あらゆるアクシデントを排して、必死で現状維持しなければならない。

第五章 暇と退屈の哲学
退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。人間の奥底からは何となく退屈だという声が響いてくる。

第六章 暇と退屈の人間学
人間は退屈できる。自由である。だからこそ決断すべきである。決断して、人間の可能性である自由を発揮せよ。
自由がゆえに、人間は暇になる。

第七章 暇と退屈の倫理学
人間は習慣を求めるし、習慣がなければ生きていけない

結論
一つ目の結論、暇と退屈の倫理学を通読したことで、なんたるかを理解し、すでにことを成している。
二つ目の結論、贅沢を取り戻す。人々は浪費家ではなくて消費家になることを強いられている。
楽しむためには訓練が必要だ。
人間には気晴らしという楽しみを創造する知恵を持っている。ところが気晴らしをすればするほど、退屈が増すという構造を作り出した。
三つ目の結論、人は退屈とは切り離せれない。ならば人間らしい生活から外れた動物になること。

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