教育社会学者の育休日記♯18 寝室を「精神と時の部屋」と呼び、寝かしつけを「内省の時間」と呼ぶ

人は、何かの行為や判断や発言を誰かに向かってするときには、相応のリアクションを想定して行う場合が多いように思う。

大人になって働き始めると、同じような価値観、考え方の人と時間をともに過ごすことが多くなったり、同じ人と過ごす時間が長くなって、相手が取るであろうリアクションの想定の確度はどんどん上がっていく。
Aと言ったらA’が返ってきて、BをやったらB’が返ってくる。
その「想定できる感」が心地よさにもつながるし、「気が合う」とか「関係性が良い」とかってなっていく。
Aと言ってZが返ってくることが面白いことももちろんある。でもその場合はZが返ってきた理由を聞くだろうし、その理由に納得がいかなかったり、ん?ということが続くと、コミュニケーションややりとり、ともに過ごすことが億劫になっていくかもしれない。
 
 
 

そんなことを、寝室で寝かしつけを行いながら感じた。

我が子の寝かしつけの時間は至福の時間だ。
柔らかく、愛おしい存在を抱いて、揺れたりスクワットをしたりしながら、時間をともにする。
もちろん、すぐに寝ないこともたくさんある。
そして、寝たと思ってベッドにおいた途端目を覚ますことも日常茶飯事(だいたい1日に3回くらいある)。
 


少しでも長く寝させてあげたかったり、寝れずに泣いてるのを見ながら、寝かせてあげたいと思う。
そんななかで一番難しいのは、想定がきかないことだ。

毎日毎日同じことをやってると普通工夫が生まれる。
特に合理化に向かうための工夫では、発生する不合理な出来事を少ないパターンに収束させていくことが一つの鍵だ。
例えば毎日掃除をしていると、同じところで床にある荷物を毎日持ち上げているというパターンに気づく。床掃除のなかで行う様々な行為の中で「物をあげる」という行為にパターンを収束させて、物自体の定位置をかえるという解決策を見いだす。



ただ、それが寝かしつけには一切効かない。
うまくいったあのときのあの工夫、昨日のあの動作、ついさっきのあのアクション、うまくいったことをパターンに収束させようとしても、一度うまくいったことがまたうまくいくとはほぼ限らない。そう、再現性がないのだ。
当たり前すぎるほど当たり前だが、だからと言って「今日はやーめた」とはできない。できないというか、したくない。


そんな時に矢印が向くのは自分自身のことだ。

パターン化は、非人間的な営みになりうる。
自分が、我が子の発する行為の意味を読み取りパターン化し、自分のアクションを整理し、妥当な打ち手を模索しようとするその営みが、非人間的。
我が子の一つ一つの所作、表情、何より気持ちに向き合い、一つ一つに寄り添って試行錯誤する、その営みはきっととても人間的で。おそらく、そのなかにはパターン化には至らなくてもたくさんのシグナルがあって、我が子は自分にいろんなことを教えてくれている。
あるいは、自分の狭い視野、フレームで捉えているだけで巨視的、あるいは微視的に捉えたら普通にパターンは存在している可能性もある。
それとて、自分ごちていたり非人間的な営みに埋没していてはきっと気づけない。


実は世の中そういうことはたくさんある。
高度に合理化が進む世の中だ。パターンだらけで、さまざまなことが「収束」に吸い込まれていく(収束できることに安心してるのかもしれない)。
そこには二つの落とし穴がある。
一つは、自分の狭い視野に閉じこもっていくこと。その外側にある理やら価値観やら感情やら思いやらに、人はどんどん気付かなくなる。そんなことから断絶や乖離は生まれる。
もう一つは、「何のための合理化か?」という問いが失われていくこと。極度に合理化が進む日常は生きるに足る日常なのだろうか。無駄を省き、パターン化された暮らしは、果たして自分の暮らしと言えるのか。

便利すぎるツールが身の回りに溢れる世の中においては、そんなことすら気づかなくなる。


そんなことを気づかせてくれる我が子の寝かしつけの時間を「内省の時間」、寝室を「精神と時の部屋」と、呼ぶようにさえなってきている笑




そんな我が子は、先週、自分で自分の髪の毛を引っ張りながら、空腹時に勝るとも劣らないとてつもない勢いで泣いていた。どう見てもそれが原因にも関わらず、指を髪から離そうとしても、強く握って離さない。なんなら、泣けば泣くほど強く握る。

赤ちゃんは、どこまでが自分でどこからが自分以外かわからないと聞いたことがある。
そんな我が子もきっとおいおい、「お!これは自分の一部なのか!」と気づく時が来るのだろう。そうして一つ一つ、人は育っていくのだ。
なんと素晴らしいことだろう。

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