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神聖かまってちゃんのいる場所

みんなはどうやって生きることの苦しさと折り合いをつけているのだろう。そんなことを考えなくてよい人生はそこらじゅうに転がっているはずで、では、なぜ自分には手に入らなかったのだろう。息苦しいと思った瞬間から心は弱り始めて、それはなかなか回復しないので、1人で噛み締めて噛み締めて味がなくなるまで心のモヤモヤした部分をしがんでいる。夜は長い。同じ苦しみを同じだけ、誰かと分かち合えたら良いのにと思う。

誰かが苦しんでいることには、安心を覚える。質感は違っても、何かの欠乏を執拗に埋めようとする心根は変わらないのだと思えるから。僕たちは、決して自分の欲望をただしく言葉にすることはできない。だから色々な表現に頼って、根源的な欲望に近しい何かを出力しようとする。神聖かまってちゃんは、いつだってそういう心の深い場所にいる。

かまってちゃんは、いつだって、同じことを同じ熱量で歌っている。学校に行きたくない、はやく死にたい、お前を殺したい、認められたい、愛されたい、どうしようもない。同じことを同じ熱量で、いつまでもいつまでも苦しんでいる。いつまでも同じことで苦しんでいる自分の弱さを、彼らにみんな投影している。

戸川純がさいきん、かまってちゃんのことをとても的確に表現していた。神聖かまってちゃんの音楽を聴くのは、LEONの一幕を見ているようだ、と。大人になっても、人生は辛いの?辛いさ。けれどそのことが与える希望だって、ある。苦しみながら生き抜く方法を示すことで、かまってちゃんは延命している。


死にたいと思ってかまってちゃんを聴くはずなのに、聴き終わる頃には、生きられるかもと思えてくる。だって、の子さんの方が苦しそうだから。いつまでも、いつまでも、同じところで、同じ熱量で、傷だらけの体で、同じ苦しみを歌っているから。そのことに、ぼくはいつも安心している。誰かに認められたいとか、救われたいとか、そんな浅薄な承認の次元を軽々と超えて自分の心に潜っていく、真っ暗で、絶望的で、でもエネルギッシュで、耽美的で、まるで自閉症みたいな音楽なのだ。

むかし会社を休んでいた時、千葉ニュータウン中央駅まで自転車を漕いで、かまってちゃんのいた風景を探しに行ったことがある。何もなかった平地に、鉄道とスーパーと道路だけ持ってきたみたいな殺風景が延々と広がっていて、少し離れればそこからはずっと田んぼだ。胸が空くほど広々としているのに、なぜだか窮屈な気持ちになる。僕は駅前のベンチに座って、ランドセルを背負って延々と呪詛を吐いている小学生のの子さんを想像しながらひたすらぺんてるを聴いていた。

の子さんは、ひとりぼっちの部屋と、学校と、田んぼのことばかり歌っている。いつまでもそこにいて、同じところで迎えてくれて、生まれてきてくれて、音楽家になってくれて、ありがとう。


毎日踊っている、黒いたまご

毎日100回聴いている、美ちなる方へ


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