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付き合い方の問題

自分が相手に比較的優しいと思っていることは俯瞰的に見るとそんなことないということもよくある話で、自分が人と話すということで考えをまとめられたり、記憶が鮮明、より思い出しやすくなるというのも他の人にもあるのだと思う。

自分がまともに生活しているような朝の時間は自分の理性がしっかり動いているので、相手の行動を考えたまるで優しい行動が振る舞えている。ロボットのようにも感じるその感じで動いている自分がいるのは受け入れ難いわけではないが、そうでない自分がいることを考えると、なかなかそうあるべきなのか、そうでない自分がいいのか、それを社会に解き放つべきなのかなどなど悩む問題点だと感じる。

まともに人が接してくれているのが自分のまともさながらの朝のだからであるのかなと空気から感じる。じぶんが善人であるは他人に判断されることであるが、自分がその基準を持てない善人はいつも思うが、灰色の紙粘土のような他人の考えに汚染された感覚が強い。

実際女の人と付き合うとなった場合、自分がはっきりしている方がいいということが言われる。実際自分が行動する時にもそれを感じるし、それを、朝の姿の自分が妨げているのも、自分の中の葛藤であり、自分はその葛藤から抜け出したい。しかし、何かを決める時に書き起こして、どうするか策を練る自分にとって、目に見えず、自分の論理からはみ出たり推察できなかったりするものや、自分の頭の中で留めて置けない情報、情報量の多いものを扱うのは至難の業に感じる。
行動する時の指針を自分が意志をもって使うために、自分がそれを練習し慣れる必要もあると思う。自分の人生が一度しかないなら、自分はどんどん試していく楽しさに慣れる必要があると思う。

P.S. 自分この文を書いている間にもそのことについての解決策が出てくることがある。しかし、同時並行でなし得る、到達できる答えは足がけにすぎない気がするし、その考えはたまたま得られた最善の策かもしれないが、それより自分は時間の大切さを気付いたりすることに時間を、使い自分の知的好奇心を断ち切った方が、だらだら、なあなあにならずに済んでいいことがあると思いたい思う。
時間を決める、緊張感を持つ、終わりを決めてやめること何もかもメリハリから始まる。


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