見出し画像

【ネタバレあり】舞台「刀剣乱舞」天伝 蒼空の兵 -大坂冬の陣- 考察/感想

太閤左文字が「信頼できない語り手」である可能性について。
加州清光の声の色の感想、徳川家康との戦いについての感想。

----------------

▼太閤左文字と「信頼できない語り手」について

前回のエントリで「蒼空の兵」というタイトルについて考察をしたが、フォロイーのりおんさん(@Rionn_unosarasa)のツイートで目が覚めるような思いがしたので補記したい。

ミステリの用語で「信頼できない語り手」「レッドヘリング」という言葉がある。
「信頼できない語り手」とは、その名の通り、信頼性に欠ける物語の語り手のことだ。
ひとつ例を挙げる。

とある殺人事件の犯人を突き止める、という物語がある。
その物語は主人公の視点で描かれているが、物語の最後で、主人公は記憶喪失であったことが判明し、かつ、主人公こそが殺人事件の真犯人だったということが明らかになる。
この場合、主人公は「信頼できない語り手」であると言える。

「レッドヘリング」とは、読者をミスリードに誘うための偽の伏線のこと。上記においては、真犯人(=主人公)とは別に、怪しまれるような人物を用意した場合、それは「レッドヘリング」と言えるだろう。


天伝に登場した太閤左文字は「信頼できない語り手」である可能性はないだろうか?

本作の豊臣秀頼は、アイデンティティの根っこがぐらついている人間だった。自分は不義の子であり、豊臣秀吉の血を引いていないのではないか?という噂を真に受けて、ひとり思い悩んでいた。

太閤左文字はそんな彼に「豊太閤(=秀吉)と同じ匂いがする」という言葉を手渡すことで、彼を立ち上がらせることができるのだが、

ちょっと冷静になって考えたい。
「匂い」という根拠は、確かなものと言えるか?

私は、観劇当時、彼の「豊太閤と同じ匂いがする」という言葉に疑問を覚えなかった。
なぜなら、それよりも前に、太閤は「匂い」を根拠として、山姥切国広たちと同じ本丸の刀剣男士であると主張したシーンがあったからである。
そして、私はそのシーンの太閤の言葉に真実味を感じ、納得させられたからである。

ただし、思い返してみると、太閤が自分の行動を説明するときに用いた「太閤左文字劇場」は、分かりやすさと痛快さはあれど事実に対して誠実とは言い難かった。結構テキトーだったよね。

それに、刀剣男士は歴史を守るためならば嘘をつくこともあるんじゃないか?と思う。大千鳥十文字槍が真田信繁に成り代わったのだってある意味「嘘」だ(※そしてその嘘は无伝の冒頭で看破されてしまうのだが……)

太閤左文字の最優先事項が、
豊臣秀頼と一期一振の惑いを取り除き、おのおのの戦場に向かわせる……ということだとしたら。
ふたりを説得できるならば、手段は何でもいいのだとしたら。

太閤は嘘を使う……
……んだろうか?

疑問はそれだけではない。
もし、「匂い」が「確かなもの」でないのなら、太閤左文字こそ何者なんだろう?本当に未来の山姥切の本丸に顕現する刀剣男士なのか?
山姥切たちとは別勢力の刀剣男士である可能性は無いか?

太閤左文字と宗三左文字の兄弟仲睦まじい会話シーンもあったけど、あれは嘘であった可能性もあるということか?
まさか!まさか……

……確たる証拠が見つけられなかったので、分からない。
ただし、太閤の言葉が嘘だろうと真だろうと
「豊太閤と同じ匂い」という言葉をきっかけに、秀頼と一期は救いを得た。それは確かだったよね。そのことは忘れずにいたい。

----------------

▼「刀ステの加州清光」の声の話/感想

これを書いている人は、音楽とか人の歌とか声とかに色を感じることがある(詳しくは過去記事を見てほしい)。

たとえば、刀ミュの加州清光(演:佐藤流司)の歌には、しっとりとした暖色寄りのアイボリーと、その中に黒曜石の欠片みたいに鋭くて尖った黒いちかちかを感じることが多い。

そして刀ステの加州清光(演:松田凌)の声にも色があって、とても綺麗だなと惚れ惚れしてしまったので、そのことについて書く。

刀ステの加州の声もまたアイボリー系だった。
とはいっても、刀ミュの加州とは違って、こちらは寒色寄りのアイボリー。ふとした瞬間に、虹のように消えてしまうんじゃないかと怖くなる、水彩絵の具のような淡い色。明るい色なのにタナトスの影を感じて、つい目で追ってしまう、儚い、さざめくような水面の光沢。不可触のガラス細工。
そんな感じ。

そんな声で「主に大事にされたいしね」だなんて言うからさ。
こちらはどうしてか苦しくて苦しくてしょうがなかったんだ。
私はステ加州の主でも何でもない只の観客でモブだけど、
自分の中にある、ありったけの「愛」みたいな何かをかき集められるだけかき集めて差し出したくなるような、そんな声。

刀ミュの加州が水辺に咲く一輪の薔薇だとしたら、刀ステの加州には彼岸花のイメージを持たせたくなってしまう。

そんなタナトス寄りの声が、死から生の位相へ急反転する。
終盤の、刀剣男士ひとりひとりの殺陣の見せ場。

加州が「これが本気だ」って叫ぶところ。

ドスが効きすぎて余りある「本気だ」は、タナトスなんか余裕で蹴っ飛ばす声だった。
目が覚めるくらい昏い、夜の色。夜に潜む壬生狼の牙。

ミュ加州の「これが本気だ」とは全っ然アプローチが違うのだけど、めちゃめちゃかっこよかった。


加州清光と徳川家康との一騎打ちにも胸打たれた。熱すぎる対戦カードだった。

「生きるってのはそれだけで戦だ」という加州の叫びは、戦いへ歪んだ執着を抱く家康を説き伏せる言葉であると同時に、コロナ禍に喘ぐ人たちに届け響かせるような、観客を奮い立たせるような言葉でもあった。

そして、そしてね。
最初、加州がキャスティングされた時、大坂冬の陣に、なぜ加州?って私は思ったんだけど、この一言でぶちのめされたし納得させられたよね。

「アンタ(=家康)の作る時代の先にはあの人(=沖田総司)がいる」

私は「歴史を守ることは本能」を根拠として戦う刀ステの刀剣男士になかなか感情移入できない時がある。
だって「本能」を戦う理由にするということは、刀剣男士自身の意思や、意志はそこにはないということと同義ではないの?
(たぶん、刀ステを作っている人たちはそれを自覚しているんじゃないかな。そしてこの先、刀剣男士が「本能」と呼ぶものの限界やその先を描くんじゃないかな、と私は信じている)

加州の言葉は刀剣男士の本能だったのか、それとも彼自身の意思だったのか。どちらもか。
その正体は劇中では語られなかったけど、家康のエゴとがっぷり組み合う言葉だったと思う。

家康は生を感じたいがために、自分以外の誰の利にもならない戦いに挑むし、加州は「歴史を守る」という大義のためとはいえ、現地の人間には何の利にもならないことをする。
そんな二人の一騎打ちはエゴとエゴのぶつかり合いだった。
感情線とアクションの盛り上がりが連動して泣きに泣かされた。


刀ステの加州、好きだなぁ。
岩場に座るときに場所をぱぱっとはたいてたり、戦闘の後に着崩れを気にしてるのには、「加州清光らしさ」みたいなのを感じたし、
真田丸で荷物を運ぶ時、自分の本体の打刀を脇に挟む芝居(※大千秋楽ではやってなかった芝居)はちょっと意外で面白かった。
山姥切と気の置けない間柄を感じさせる会話もいい感じ。

刀ミュの加州で「特命調査 慶応甲府」を見たいなぁって思ってたんだけど、刀ステの加州でも見たくてたまらない。
刀ステと刀ミュの両方でやってくれないかな、特命調査。
……なんて思ってしまった。

----------------

■筆者の連絡先はこちら

普段はTwitter(@soubi422)にいます。
刀剣乱舞の山姥切長義と小狐丸に目がないモブです。気軽にリプでもDMでもお送りください。

匿名で連絡したい方はマシュマロからどうぞ。

返信は筆者のTwitter上(@soubi422)で、不定期で行っています。
届いたマシュマロは基本的に全部返信するので、返信不要な方はその旨をお書きください。

筆者が書けるタイミングで返信をするため、お返事までお時間を頂戴する場合があります。お急ぎの方はTwitterのリプライかDMをご利用ください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?