ホラーをホラー足らしめる『現実の“タブー”』

 2017年、ホラー映画のなかで異彩を放ち、話題を攫った一本の映画がアメリカで封切られた。
そう、『ゲット・アウト』(原題:Get Out)だ。

 黒人大統領がうまれ、もうこの社会に差別という問題はないような建前と、度々起こるヘイトクライムという本音。
さらにオバマ大統領が退けば反動のように差別主義者トランプが座に着いた。
その欺瞞というタブーという膿を切り開いてみせたのがこの『ゲット・アウト』だ。
(日本でも、いま大坂なおみ選手フィーバーの欺瞞をまさにこの映画が表しているのだが…)

 被差別者が望むのは唯一つだけ、「同じ国民として、同じ人間として扱われたい」。
しかし異質なものを受け入れる側からは、好ましい成果をあげる良質な肉体は肉として扱えることが好ましい。
それはトロフィーとしての肉体だ。
その品定めする視線、人を人として扱わない態度、そういったものがじっとりとした気味の悪さと居心地の悪さを与えてくる。

 タブーという点でホラーを読み解くと思い出されるのは、スティーブンキング原作『イット』(原題:It)、またJホラーの至宝『リング』だ。
スティーブンキングはまさにこのタブーを切り開く天才だ。
2017年にもリメイクされた『イット』だが、皆が恐れる“それ”こそタブーそのものだ。
田舎町で凝り固まった人間関係、何かが起こったとしても暗黙の了解の下でタブーは増え続ける。
綺麗な田舎町のように見える建前の中で淀む、そういった澱のような本音たちが一人、また一人と子ども達を攫う。

 正体とされるペニーワイズは用水路に住んでいる。
そこには人々の生活して生まれた汚濁が溜まり、凝り固まって一つのクリーチャーが生まれたのだ。
顔につくりものの笑顔をはりつけた大人たちは、子ども達が抱える本当の問題――虐待、成長への不安、大人社会への不信…――を誰一人まともに取り合おうとしない。それに向き合うことは自分たちの矛盾やエゴを受け止めなくてはならないからだ。
知っているのに問題を解決しなくていいように、嘘に嘘を重ねて、結果子ども達がペニーワイズの犠牲となる。
虐待、自殺、乱射/通り魔事件、そういったものへと形を変えて、ペニーワイズはなお力をつけるのだ。

 まさにムラ社会のタブーを描いている。だから本作は日本でも受け入れられるのだろう。

 対して日本のホラー『リング』。
これらもまさに言ってはならない人の悪意が及ぼした罪が産んだ怪物だ。
貞子はまさに日本の怪談を取りまとめたような存在だ。
強い怨念を持って死に、白い衣装で「うらめしや~」といいながらとり憑き、呪い殺す。
彼女たちは大抵権力者たちに弄ばれ殺されたのだ。現実では反撃する術を持たなかったものが、恨み憎しみを経て誰も口を開かないその地のタブーに復讐を果たす。
こういった存在は海外でも白いドレスの女(”woman in White”)などと都市伝説扱いされるが、現代よりもなお女性蔑視の強い時代に生まれた山村貞子の母・志津子は超能力ゆえ人の目を惹き、持て囃されたがインチキとされると一転詐欺師と非難されたことを苦に自殺する。
貞子はその後能力を開花させるがその美しさとその能力の強さを疎まれ、誰にも守られず井戸に投げ捨てられるのだ。

 ホラーの良質さはいかに“現実に存在するタブーに切り込めるか”にかかっているといえる。
仏映画の『RAW』や『エヴォリューション』、米映画の『マザー!』もそうだ。

 そんなことを露呈させるなんて!という不安感、そして自分も知らず知らずに行ってしまっていた罪により狙われるかもしれないという恐れ、それがホラー映画をホラー映画たらしめる要素だと思う。

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