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我当然、執まっさつ という理念

これは私がむかし関わっていた暮らしの、一部です。

我つまり個人の思いですね。
我はあって当然だが、我に執着すること我執はまっさつする、つまり執着しないで生きましょう!という理念です。

ではどうしたら良いのか?
そのためには話し合いを続けて、思っていることを出し切って他の人の意見も聞いてお互い最善の答えを見つけましょう。
その最善の答えに沿ってやりましょう。が具体的なやり方でした。

とはいっても、自分の思っていることを人前でぜんぶ話すとか難しいんですよ。
人の個性もあるし、なんか遠慮するというか空気を読んで合わせてしまうこともありました。

自らその暮らしをしている人たちは、そうやって理想社会を実現しようと活動していたのです。
わたしも当時は、そう思ってました。
『一人ひとりが思い切りやれる社会が創りたい』と願っていました。

でも志半ばで、そこを退出しました。
もう30年もたつ経験でした。

この世には理想社会は存在しない、出来るわけがない

ということに気づいたのは、奇跡講座を知ってからです。
この世は幻であり、自我の作った世界です。
自我になにも理想はなく、愛情もありません。
ただ愛情に見せかけたもの、があるだけです。

たとえば北朝鮮。
正式には朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)は、1948年に設立された国で、金日成によって設立されました。
北朝鮮は、自らを社会主義国と位置づけ、初期の段階では多くの国が追求する理想的な社会主義モデルを提案していました。
しかし、実際には独裁的な体制が確立されました。

さきの暮らしでは
養鶏を主産業として農業なども含めた、生活基盤を作っていた。
その生産物を販売することで収入を得て、日々の暮らしを賄っていたのです。

その根本理念も、ある人が養鶏に理想社会を見出してそれを人間社会に置き換えた。
鶏という動物の暮らしから、人間社会へ通用する理念を考えたのは人です。
自我の枠組みで考えても、どこまでも自我の範疇にとどまります。

過去を否定するのではありません

といっても、その暮らしを作っていた人々を否定しません。
今もその暮らしは続いています。
近隣の学生が暮らしを参観に訪れることもあり、ある評価はされています。

わたしもその経験があるから、いまの考えになったのですから。

ひとりひとりに見合った生き方がある

わたしも、彼らにも見合った考え方があり、その生き方があります。
真実を見つけるための手段、道のりが異なっているでしょう。
それで良いのです。

自我が大きな脚本を描いて、人の数だけ分割され肉体も分裂して生まれました。
肉体が作った脳や感情も、人それぞれ。
ですから、真実に目覚める手段道のりも、人それぞれあります。

その道が交差するときもあれば、全く合わないかもしれない。
そうであっても、私達は全てがやがて真に目覚めるのです。



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