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卒業作品展にみる時代性

先日、都内の某芸術大学の卒業作品展を観に行った。卒制展に行くことで、今の学生/若者が何を考え何を表現するかを知ることは、その時代性も知れる良い機会だ。

期待して行った某芸大の作品展だが、今回は少し物足りなかった。過去毎回、二、三件くらいは琴線に触れるような作品があったが数年ぶりに訪れた卒展は心踊るものが少なく感じた。

例えば建築学科の作品は、多くが都市の隙間や余白、都市の歴史資産の在り方と活用をテーマとして、その間を埋めるような建築的提案をしている。今っぽい。日本のトレンドをよく反映している秀作だ。賢い、スマート、頭で良く考えられている。だが、お仕事っぽい。卒制とは、それでいいのか。

「あなた本当にそれ、心から作りたい作品なの?」と聞きたくなる。現代社会のしがらみに気を遣い過ぎというか、過去の産物に配慮し過ぎというか。模範解答し過ぎじゃないか?と。建築学科に限らず、どれも芸大なのに説明的でロジカルで「わかる」作品に感じたのだ。

とくに美大建築の作品なんて、どうせ実現しないんだから(おっと、失礼。)大きな夢を提案したらいいじゃないか、学生から社会人になって、しばらく夢想できる時間ないかもしれないんだし。いつか本当に実現するかもしれないから!なんて、元建築学生としては先輩風吹かせてみるのである。(そこに制作した本人は一人も居なかったので、風の吹き先は無かったけれど。)

日本の現状の写し鏡みたいで、それはそれで社会性も時代性も反映されているから、ある種ポップな作品で、それはそれでアリなのかもしれない。

でも以前の某芸大の作品って、もっと尖っていて前衛で、意味不明、カウンターカルチャー的で、社会への反骨精神が満載、模型など無駄にデカくエネルギーの塊みたいなものがあったので残念だった。いや芸術作品としては相変わらず流石の芸大なのだ。つまらないのは学生のチカラが弱まったとかではなく、それもまた時代性なのかもしれない。と感じた。

後日、別の芸術大学の卒業作品展をみる機会があった。こちらは実名で。京都造形大学の卒制展。贔屓するわけでは無いが、京都造形大学の卒業作品には「作りたいものを作る」というパッションがあった。クオリティは、明らかに某芸大の方が上だ。どれも荒削りだが、でも熱量は断然こちらがあるように感じた。これこれ!昔の某芸大に感じたエネルギーだ。

例えばこの屋台の作品。自らタイに滞在し徹底的にリサーチして、現地の屋台工場で自分でも製作に関わって、そこに無かった図面をお越し、屋台をつくる為の屋台をつくった作品。まさにエネルギーの塊。制作した当人と会えて「これからの時代は屋台だよね!」と意気投合した。

他には、工業化/汎用化/普遍化されるモノへの疑問から自ら山で鉱物を採掘したり、銅メッキを施したり、砂鉄から鋳鉄したり、人工鉱物をつくり天然鉱物の違いを研究し表現した作品は現代のアルケミストの様だった。さらにこのテキスタイル作品。

自ら滞在体験した山岳の姿をそのまま描いたもの。毛糸を使いカーペットの製法で作る巨大なタペストリーとして表現は圧巻だった。

また「遺跡ばかり出て開発が止まるエリアに遺跡のまま活かして都市空間作ってしまえ!(意訳)」みたいな作品が学長賞なのは、何度もうなずける。

多くの作品が良い意味で手を動かしてから頭が動いて制作されたような、感覚的であり手工芸的だ。ちゃんと時代を捉えつつ、時代が生み出す現象にカウンターをかましている。社会の作用に対する反作用としての芸術がある。

この差はなんだろう。東京と京都の差だろうか。教育思想の差?教員?
作者本人がちゃんといたこと、作品が自分ごと化されてることだろうか。

社会に出て即戦力で活躍するのは、たぶん東京の某芸大の学生だろう。中長期に大事な人財としては、京都造形大学の学生にも光が当たって欲しい。きっと造形大の学生は就職したら悩み大き数年を過ごすだろうと造形大の先生たちと苦笑いしたときは、ちょっと複雑な心境だった。(造形大にも実践的で即戦力のある作品も多々あった。念のため。)

どんな芸大生にしろ、彼らが時代性に気負いしない、負けない、社会に出ても創作の自信を失わない応援が何かできないだろうか。かつて自分がそうしてもらったように。

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