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道徳の『教科化』

中学時代

 僕は道徳の授業がよくわからなかった。教科書のようなものに書いてあるお話を読んで、登場人物の気持ちを考える。いや、正確には登場人物を書いた作者が設定した『正解』を探る。僕は昔からかなりひねくれていたから、『正解』では無いことを言っていた気がする。目立ちたがりの性格と、人とは違うことをしたいという感情があわさって、『はずれ』を必死に探した。

道徳

 道徳ってなんだろう。人の気持ちになぜ正解があるのだろう。道徳を教科にして評価できる形を整備して、何になるのだろう。そんなモヤモヤが消えないでもないが、それでも意味があるからそういう取り決めをしたのだろう。この前の記事でも書いたが、僕は人生には正解行動があると考える。場面や状況によってそれは常に変化しうるものではあるが確実にある。おそらく道徳の授業ではそれを『正解』に設定するのだろう。もし、あなたが僕の言うことを信じられなかったり、もっと知りたいと思ってくれたのなら、ぜひともその記事を読んで見てほしい。かなりの力作だからきっと面白いと思ってもらえるはずだ。話を戻そう。しかしだ、おそらく多くの人は正解行動を思いつくことが出来る。問題はそこではないと思う。世の中にはサイコパスがいて、人の不幸を自らの幸せに設定できるその人が正解行動では無い行動をとることもあるだろうが、それは教えたからといって治るものではないのではないか。考えることと行動することは全くの別次元だ。行動の意志が大事か結果が大事かの問題はここでは考えない。難しいから。ただ、言えることとしては、『正解行動』はほとんどの人が知っているしその場で考えつくことが出来る。それを行動できるかどうかに焦点を当てるべきではないかと僕は思うのです。ただし、正解行動には複数の正答があるということだけは忘れないでいてくれればそれでいいのだと思う。

そうしなければ道徳の授業をモノマネ大会と化すようなやんちゃな子供たちが現れかねないからね。

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