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【生田絵梨花】卒コンの時期(2021年12月14・15日)になって、2年前の懐かしい姿見てしまった。

今見たら改めて、完璧主義者生田絵梨花が見えてしまう。
卒コンでの一人でほとんどの楽曲に参加して(2日間で66曲中自分が参加しない局は3曲)いる事に違和感無いのは、筆者が慣れてしまったからなのか?

その時、山田系太楼さんのブログを思い出した。

私より文章が上手く、生田絵梨花を紹介しているのだけれど、それでも生田絵梨花を言い表すのにかなりの文字数を使わざるを得ないのは、納得する。
その中で、下記の表現が有ったのを思い出した。やっぱり、芸能界の中でもそういう意味で稀有な存在なんだよね。

生田は個性的でガツガツしている。このアクの強さはリスクになり得る。
しかし生田は決してAKBっぽいメンバーと云われることがない。それどころか乃木坂を象徴するメンバーと見做されている。これは彼女の愛らしさと高度に芸術肌なところが為す技なのであろう。そしてやはり声がイイ。話し声も歌声も、しっとりとしつつ、愉しげに弾んでいる。気品ある変人性、これが生田の生田たる所以である。
歌声に力の無い乃木坂に於いて、最も乃木坂らしい生田絵梨花に、最も歌声に力があると云うのも、非常に皮肉な展開性である。

かつて筆者が生田絵梨花を評して、「群盲象を撫でる  ※1」と表現したが、未だに新たな面が垣間見れたり、どれだけの構成部品があってどれだけの構造物なのか?いまだにわからん。

※1「群盲象を撫でる」
は、インド発祥の寓話で、複数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合うという意味です。
この寓話は、断片的な情報ですべてを理解したと考えがちだが、結果として間違っている(物事の本質を見失っている)という意味です。また、凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえでもあります。

この寓話にはさまざまな解釈があり、視覚障害者に対して差別的な要素を含んでいるという問題もありますが、真意はそこにはありません。この寓話の教訓は、同じ真実でも表現が異なる場合もあることであり、異なる信念を持つ者たちが互いを尊重して共存するための原則を示しています。


■坂の上の雲 それは生田絵梨花だった

山田系太楼どっとこむ

AKB乃坂道 表紙 by 山田系太楼どつとこむ  2017.12/28


はじめに

 生田絵梨花は愛くるしい。
乃木坂46結成当初より、見るからに利発であり、物怖じせずにハキハキとしていて、朗らかだった。
生田絵梨花は愛苦しく、愛狂おしく、相狂っている。
頭の構造が歪で素っ頓狂で外連味があって、どこまでが天然でどこからが人工なのか判然としない。
しかしそれが彼女の創造性の元始でもあり、彼女へ向ける想像性の原資になっている。

 彼女は天才的であり、秀才でもある。矛を振り廻して(※2)、疑問と理由を包み隠さず間断なくぶつけて周囲を振り廻すさまは、幼少期までドイツで過ごしたバックグラウンドを感じさせる欧米化した個を持っている。

しかしその一方で、盾の内側に感覚を隠して滑らかに振る舞う日本化したコンパクトさも兼ね備えている。欧米化した彼女は最初から違っていて、乃木坂と云う集団の中にあって独走している。しかし逸走しているわけではない。日本的な彼女は飽くまでリングの内側に居る。そして最終的には踏み外さず的確にジャーマンスープレックスを繰り出す。そこに至るまでは、ぐちゃぐちゃしていて気持ち悪くなっていることもあるが。

説明:矛を振り廻して(※2)
防具技術が進むにつれ、生身を狙うのが難しくなった結果、如何に鋭く突き刺すかより、如何に打撃を与えて戦闘不能にするかという部分が重要視されるようになった為、振り回す所作というものも加わりました。 なお、戦国時代では5mから8mの長い槍で徹底的に敵を叩きのめす事により骨折や重度の打撲を狙った槍術などもありました。



特殊な乃木坂っ子・生田絵梨花

乃木坂46は2017年現在、その全盛期を迎えている。絶頂期と称して良いだろう。

2011年8月に結成したこのアイドルグループは、翌12年2月メジャーデビューを果たす。11年10月には、冠番組「乃木坂って、どこ?」が一足先に始まっている。AKB48の公式ライヴァルとして位置付けられた乃木坂だったが、初期の頃はAKBのリソースに全面的に頼りつつ、ブレイクを目指す戦略を余儀なくされた。

 AKBのセンターが前田敦子に固定されていたように、乃木坂もまた、生駒里奈のセンター固定が続いていた。これが解除されたのは13年7月発売の6枚目のシングル「ガールズルール」からで、当時一番人気の白石麻衣がセンターを務めて、売上が一段階、上向きのものとなった。次に乃木坂が飛躍の時を迎えたのは、8枚目のシングルのセンターに西野七瀬が収まり、また生駒が交換留学生としてAKBに出向してからのことである。西野は9枚目と11枚目のシングルでもセンターを務めて、乃木坂は生駒中心の体制から西野中心の体制になった。

しかしながら圧倒的外部一般知名度No.1は生駒であり続ける。西野の一般知名度が漸く上昇の兆しを見せているのは、ごく最近の話だ。したがって内部人気No.1となった西野と生駒との両輪体制と云う構図が実相に近い。

 西野の方が生駒よりも自己中心的天真爛漫性を持ち、それがヴィジュアルとも融合して彼女の人気へと繋がったが、しかし、暗くか弱い雰囲気に彩られつつ、乃木坂の中心としての重責に耐えるべく一生懸命に前を向いて頑張る側面に関しては、西野も生駒も強かった。

だが生田は異質だった。湿ったところが一切ない。なよなよっとしているわけでもなく、わけも無くがむしゃらなところもない。それでいてほとばしる情熱は、件の二人を上回っている。

乃木坂の秘蔵っ子・生田絵梨花

 生田絵梨花は初期の頃から乃木坂の中心メンバーとして位置付けられてきた。「生生星」、即ち生駒・生田・星野みなみの3人が乃木坂の中心核として、乃木坂運営によって据えられていた。

生田の存在感は別格のものだ。
「清楚さ」はAKBとの差別化を図る上で乃木坂にとって非常に重要なファクターとなっていたが、生田は、お嬢様的な清楚感、愛らしさに包まれていた。

秋田出身の素朴さが前に出てくる生駒との対比性と云う観点からも、それは好都合なものであった。育成型アイドルと云う観点からは生駒のような芋っぽいメンバーが好ましい。

しかし「乃木坂46」である。東京の、それも城南地区らしさある都会感が必要だ。その点に於いて生田の雰囲気は、最も適格性のあるものだ。

だが生田の武器は、その雰囲気だけに依拠するものではない。ピアノの腕前は特技の域を超えてセミプロ級である。そこに「ドイツ生まれ」と云う枕詞も効果的に作用する。幾人もの大作曲家を輩出したドイツ圏は、西洋古典音楽の本場である。生田には本物感、大物感が付きまとう。その一方でアクの強いキャラクターも持ち合わせていて、清楚感とは対照的な個性的愉快さがある。本格派と親しみやすさ、つまりアーティスト性とアイドル性の二面性を併せ持っているのだ。
AKBとは異なり、劇場公演を行わない乃木坂には別格的芸術性が求められていたが、二物を持つ芸術肌の狂人生田は、AKBとは異なる乃木坂の象徴としての大役を務まるに足る強靭さを持っていた。


 生駒がセンターから外れ、星野が2軍落ちする中で生田は秘蔵っ子として大切に育成され、14年10月発売の記念すべき10枚目シングル「何度目の青空か?」で初めてセンターを務めた。
8枚目・9枚目、そして11枚目シングルと西野が集中的にセンターを務めている中での生田のセンター起用は、西野には無い力強い清楚感を際立たせることになった。しかしながら主要メンバーのスキャンダルが発覚して、確実視されていた紅白歌合戦出場を逃す等、プロモーションに重大な影響が出た点は残念であった。

生駒一強から総合力の乃木坂となる中での生田絵梨花

 2015年5月に生駒がAKBでの活動を終えて再び乃木坂専任となった頃から、乃木坂とAKBの力関係に逆転が生じ始めた。
姉妹グループを含めればAKBはなお、乃木坂以上の力を誇るが、AKB本店単体では、乃木坂の人気や知名度に見劣りするようになった。乃木坂各メンバーのメディア進出が顕著なものとなり、選抜メンバーのみならず非選抜メンバーにまでその波は及んだ。

文化・教養・芸術系への露出が突出しているところに、AKBには見られない乃木坂の特色がよく出ている。
AKB的な剥き出しの個性を見せない乃木坂のイメージ戦略の賜物によるものであるが、将棋に強い伊藤かりんのように、各メンバーそれぞれが枠を獲得してメディア進出を果たした結果、従来は生駒一強だった露出や知名度にも変化が出てきた。

 依然として生駒が外部一般に於いては乃木坂の顔として機能しているものの、写真集で記録的なヒットを飛ばしたことに表れる白石麻衣の人気と知名度は、生駒に匹敵し得るものとなった。ファッションや美的分野で従来から乃木坂の顔だった白石だが、今や「乃木坂」と云う括りを超えた状況にあり、「女子高生のカリスマ」を卒業して成熟化した21世紀になってからの安室奈美恵や浜崎あゆみを思い起こさせる存在となっている。


 この白石と共にアイドルとは別次元の段階へ足を踏み入れたのが、生田絵梨花である。
 従来より生田は、乃木坂の音楽的部分に於ける芸術性を引っ張っていた存在ではあった。コンサートでのピアノ演奏は定番となっていて、AKBとは確かに違う乃木坂と云う個性を際立たせる効果を発揮していた。
しかし生田はその矛先をピアノよりも歌へとシフトチェンジさせる。彼女が乃木坂入りしたのは、ステージ経験を積む為にあり、それはピアノ演奏ではなく歌唱面についてであったから、このことは当然の成り行きではある。

秋元系アイドルが握り締めている矛盾

 生田は15年1月からテレビドラマにピアニスト志望役でレギュラー出演を果たし、11月には主役としてミュージカルに出演した。如何にも順調にキャリアを積み重ねているように見えたが、活動の方向性を巡って重大な壁にぶち当たることになる。この時期の生田は乃木坂からの卒業を真剣に検討していたように見受けられる。

 乃木坂にしてもAKBにしても、秋元系アイドルグループのビジネスの肝は、握手会にある。彼らがリリースしているのはCDと云う物販だが現実には、附属の握手券を使ってアイドル本人と対面することが、購入者の主たる目的となっている。
写真を封入する等の工夫もしているが握手会を無くせば、100万枚の売上も忽ち半減以下になろう。握手会は経費も掛かるからさほどの旨みは無いのだがしかし、これを止めてしまえば、現行のビジネスモデルは根幹から再検討を迫られる。もはや止めるに止められない睡眠薬のようなものだろう。

この「悪夢」はしかし、メンバー個人にとっても重大な問題だ。
折角、外部から仕事のオファーを受けても、握手会に細切れのように日程を押さえられ、且つ心身の疲労も相当なものとなるから、長期に亘る大型の案件には手を出しにくい。
秋元系アイドルグループはグループ活動を踏み台にして成長を遂げ、将来へはばたくことがそのコンセプトの重要な位置を占めている。したがってグループである旨みを活かして、テレビ出演や舞台等、色々な仕事を経験しているわけである。が、アイドルである範疇を超えるような本格的な仕事に関しては、根幹である握手会が邪魔をして、なかなか踏み込めない。


 生田絵梨花の原点は何だったろう。写真集「転調」を発売したのは16年1月のことだったが、生田の転調具合はより明確に、顕著になっていったように思う。それが翌17年の怒涛のミュージカル出演へと結実した。


生田絵梨花の挑戦がもたらす坂の上への道

 自分の夢の道を突き進むためには、アイドル活動の根幹を構成する握手会には満足に出席することが出来ない…乃木坂からの卒業を視野に入れた生田の意向に対して乃木坂運営は、革新的な提案を示した。それは乃木坂の夢は何だったのか、その原点回帰を図った結果でもある。

生田絵梨花は乃木坂の夢だ。

ワケあってAKBを手放したソニーミュージックは、その後のAKBの大躍進をただ指をくわえて眺めているほかなかった。そこで秋元康に頭を下げて作って貰ったのが乃木坂だった。
公式ライヴァルとの位置付けだったが、当初は何らライヴァル性もなく、AKBの後塵を拝し続けた。
それもかなりの距離感を保ちながら。時は過ぎ、その段階から遂に脱して、AKBと互角以上の戦いを演じられるようになり、各メンバーのメディア進出著しく写真集は軒並み大ヒットを記録してもなお、AKBのような老若男女が知っている代表曲には恵まれず、今現在の調子が良いだけで全盛期の、あの頃のAKBを完全に超越した感覚には襲われない…そんな状況が続いている。

 だからこそ生田絵梨花は、乃木坂運営の夢だ。
全盛期のAKBメンバーには敵わない。それは恐らく今後もそうだ。

しかし彼女たちの卒業後に目を向けてみればどうだろうか。
前田敦子も大島優子も高橋みなみも、現役時の存在感の大きさと比較して、順調に結果を残しているとは云い難い。


乃木坂がAKBを超越する可能性を見出すならば、AKBが唯一叶えていない実績、即ち、現役時代を超える活躍ぶりを見せているOGを、主要メンバーの中から輩出する部分にしかあるまい。

そこで乃木坂運営は生田側に話を持ちかけた。「乃木坂に在籍しながら夢を叶えてみませんか」と。「乃木坂に居る方が夢を叶えやすい環境ですよ」と。その為には、「懸念無用、握手会からの離脱を認めます」と。

 要するにこれはプロ野球・日本ハムが大谷翔平に対して行った提案と同じ性質のものである。日ハムは大リーグ志望の大谷に対して、日本球界を経ずに高卒即大リーグ挑戦を行った際のリスクを説き、日ハムでプロとしての実績を重ねてから大リーグへ行った方が遥かに成功する可能性が高いことを示して説得し、彼の夢である投手と野手の二刀流を積極的に支援することを約して、入団成功へと漕ぎ着けた。

 乃木坂運営が生田に対して行った提案もこれと同様の図式である。
乃木坂の看板を使って舞台活動を行う方が、卒業して一介のタレントとなる場合と比べて、よりよい役を、継続的に得ることが可能であることを説き、アイドル活動とアーティスティックな活動との二刀流を積極的に支援することを約して、卒業回避へと繋げた。

生田の懸念は自分にだけ特例を認めさせることから来るバッシング等のリスクにあったろう。そこで生田への風当たりを和らげるべく乃木坂運営は、ヴィジュアルに強い乃木坂の対外イメージの中心を担い、別格扱いされるに不足の無い白石麻衣に対しても握手会から離脱させることでバランスを取り、生田の懸念払拭に努めた。乃木坂運営は必ず特定のメンバーを悪目立ちさせない為にペアを設定するが、この時は白石に加えて松村沙友理も休ませる念の入れようであった。生田と白石が休むと云うことになれば卒業間近か、との声も挙がるが、当面卒業しそうにない松村を加えることで、余計な憶測が乱れ飛ぶことを防いだとも云える。

生田絵梨花の挑戦がもたらす坂の上の夢心地

 握手会免除の流れはその後、内部人気No.1の西野七瀬や、握手対応の良さによって中心メンバーになった秋元真夏へも及んだ。乃木坂運営は必ずしも握手に頼らない姿勢を示し、1期人気メンバーの負担を減らしてその分を外部での仕事へと傾注させ、握手会は若手や不人気メンバーに任せる対応へと大きく舵を切った。
握手会最優先のAKBに於いては考えられないこの対応こそ、乃木坂の今後の可能性を担保するものであり、生田がきっかけとなって乃木坂運営と奏でた革命のエチュードだったのである。

生田絵梨花は夢だ。
彼ら乃木坂関係者が潜在化で抱く、何をやっても所詮はAKBの二番煎じなのだと云う劣等感を払拭してくれる可能性を秘めた、
天使のような存在なのだ。日露戦争で奮闘した乃木将軍の名を冠した坂道をひたすら駆け上ることに懸けてきた乃木坂46にとって、生田絵梨花は、その上にある未だ届かぬ雲を掴む為の、聖なる存在なのである。

乃木坂で十分に地力を蓄えたのち、いつか卒業をしてそのまま人気・実力一流の芸能人へと駆け上がった時分、生田個人だけではなく坂の上の雲を掴みたい彼ら乃木坂全体の夢と野心は達成される。(※3)

我々はAKBに追い付き、遂にこれを追い越したのだ、と。

(※3)2023年12月の紅白に、特別企画とはいえ2つの楽曲で出演する事態になった。デズニーアニメの声優と主題歌や劇中歌を歌う事になった。
正に、一つの到達点に至ったと言う事だ。
もちろん、いち通過点ではありますが。


別な話

このシリーズ3回目にして初の乃木坂/坂道シリーズである。
本文でもサラッと触れたが、これだけの活躍ぶりを見せつけながら、ヒット曲が無いことが乃木坂の特徴になっている。それは少しも「特長」ではない。ある意味「特短」だろう。このことは乃木坂の特殊性を非常に象徴する事象となっているように思う。2017年最初のシングルとなった「インフルエンサー」では遂に売上枚数がミリオンに達しているから決してヒットしていないわけではないのだが、曲の浸透度が低い為にヒットしているようには余り感じられない。


しかし今の乃木坂は寧ろそれを逆手にとって活動しているようにも見える。アイドルは、正式な肩書としては「歌手」と云うことになろうが、総合的なタレントとしての活動幅の広さを乃木坂は追い求めている。ヨゴレの印象の付いたAKBを後目に、真に実態が伴っているかどうかはひとまず置いて、清楚そうなイメージと云うものを何となく持たせることに成功している。ここに「ガツガツするAKBと控えめな乃木坂」と云う図式が成り立った。

けれどもガツガツしない・前に出てこないことが乃木坂らしさなのであるとのイメージ確立は、乃木坂の成功と共に、弱体化をも、もたらすことにもなりかねない。成功と失敗、強みと弱みは紙一重、表と裏の関係だ。

前に出るべきところで前に出なければ根本的に、芸能活動は成立しない。個人でやる場合は自分が前に出るしかないのだが、グループの場合は、誰かに頼ることが出来る。
その結果、毎回頼られるメンバーが固定化し、アイツは目立ちたがり屋だと云うラべリングをされてバッシングを受けやすくなる。あるメンバーを指して「AKBっぽい」と云うのは、乃木坂に於いては悪口となる。
成長する為に乃木坂に居るはずなのに、乃木坂に居て、乃木坂らしく振舞っているがゆえに、却って成長が疎外される矛盾に襲われることになる。生命力の強くないメンバーばかりになることはグループの活力や多様性を維持する観点からも望ましい展開ではない。

その点からも、生田絵梨花は面白い稀有な存在である。

生田は個性的でガツガツしている。このアクの強さはリスクになり得る。
しかし生田は決してAKBっぽいメンバーと云われることがない。それどころか乃木坂を象徴するメンバーと見做されている。これは彼女の愛らしさと高度に芸術肌なところが為す技なのであろう。そしてやはり声がイイ。話し声も歌声も、しっとりとしつつ、愉しげに弾んでいる。気品ある変人性、これが生田の生田たる所以である。
歌声に力の無い乃木坂に於いて、最も乃木坂らしい生田絵梨花に、最も歌声に力があると云うのも、非常に皮肉な展開性である。

逆に云えば、乃木坂の限界・乃木坂の悲劇性を打ち破れる存在が生田しか居ないことをも示している。

日本人はグランドデザインが苦手であるとしばしば云われる。対象が大きくて想像性に乏しい概念を実体化させたり、実行化することが苦手なのである。

反対に、対象が小さく具体的にイメージしやすいものに関しては、得意である。ハコが小さいから、想像と現実との間の乖離が少ない。取り敢えずは表面的な見てくれだけを取り繕うことでお茶を濁して、中身が全く伴っていない事態も起きにくい。

その点、乃木坂にとっての「坂の上の雲」は、グループ卒業後の大活躍へ向けて今から生田に大きな仕事を継続的に経験させることで実績と実力を育むことにあるのだから、目標と実現過程には明瞭さが伴っている。

両者の間にイメージ面でも実践面でも乖離が少ない。また、「坂の上の雲」の場合、戦前に於いても、戦後に於いても、欧米に追い付いた後にどうしたら良いのやら分からなくなってすっかり迷走してしまったわけだが、乃木坂の場合は仮に生田が売れっ子芸能人になったとしても、それで乃木坂としての目標がぶれることはない。
第2第3の生田を輩出することに集中すれば済むことである。


日本と云う国は無限時空的に続くが、乃木坂46は、限りある時空の中で生きている。ゴールは決まっている。定まっている。だからその中で最善を尽くすことがどのようなものであるか、イメージが定まりやすい。


佐久間正英との関係性もまた、生田の特異性、毛並みの良さを補強する恰好の材料となった。生田がGLAY好きなのは、きちんとした「根拠」があるわけである。


乃木坂の代表曲の一つである「君の名は希望」は、もはや生田個人の代表曲のような趣すらある。この曲が生駒センターであることを想像することは少々難しい。


終わり

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