号泣する準備はできていた 江國香織

前進、もしくは前進のように思われるもの

でも、齟齬はおそらくもっと前から生じていたのだ。いくつもの口論と、そのあとの和解。物事は何一つ解決されない。かなしいのは口論ではなく和解だと、いまでは弥生も知ってしまった。

熱帯夜

バーと、中古レコード屋と、焼肉屋の多い街だ。夜の始まったばかりの、まだ群青色の空の下を、私と秋美はならんで歩いた。

東京の夜の空気に似た舌ざわりがする

でも秋美にあいたくてたまらなくて、会うとたのしくて、自分たちを自由だと思えた。世界の外側にでられたと思った。

でも、と言ったら泣きそうになった。あわててビールをのみほし、三杯目を注文する。
「でも、なあに」
私は首を横に振り、自尊心と羞恥心を全力で取り戻し、
「なんでもないわ」
と、こたえる。大地震をおこして世界中を皆殺しにすることができないのなら、考えても無駄だ。世界の中で、やっていくしかない。

「私たちは危険なものが好きだったでしょう?忘れちゃったの?」
いつか、と、私は考える。いつか、私たちは別れるかもしれないし、別れないかもしれない。私はすでに、秋美以外の人間を胸の内で皆殺しにしてしまったのだ。

空はもう群青色じゃなくて、かといって本当の黒でもない。

滑降していく他のスキー客たちを見ながら、
「気持ちよさそうね」
と言った志保の表情に、何の憧れも込められていなかったことを、裕樹は奇妙に思ったものだ。

こまつま

この階段に来ると実家に帰ったのに似た気分になる、と言ったら両親はーーーもし生きていればーーー笑うだろうか、あきれるだろうか。

おなじことを息子や娘にもーーーエレベーターの構造こそ違えーーーしてやったのに、
そのときの記憶より両親との記憶の方がずっと鮮明だ。保護した記憶は常に曖昧に輪郭をぼかし、保護された記憶ばかりが、つねにしみつく。美代子自身にさえ、それをとりのぞくことはできない。

それがばかげたふるまいであることはわかっていた。美代子がどんな顔で歩いているかなど、誰も見てはいない。でも、美代子は誰かに見られているかのようにふるまう。誰かに、おそらく信二に。

洋一も来られればよかったのにね

ルイとの情事がもたらしたものは、堰を切ったような記憶だった。自分が誰のものでもなかったころの、恋一つで人生がどうにでもなってしまったころの、本質的な記憶だった。
情事は、しかし終わってしまった。しかも、なつめがそれを終わらせるよりずっと前から、おそらく物事は終わっていたのだった。

記憶のなかの自分は、いまの自分よりずっと大人びていたような気がする。たぶんそうだったのだろう。いまの方が余程心細い。

どこでもない場所

語尾をのばす大人は、ばかか優しいかのどちらかだ。

冬の都心の夜の匂い。こんな時間でもタクシーはたくさん走っているし、人々もまだ歩いている。

と言った男性の名前を、そういえばまだ私は思いだしていないということに、気づいて愉快な気持ちになった。幾つもの物語とそこからこぼれおちたものたちを思いつつ、私はグラスをかぱりと干した。

かつて輝かしい恋をした。
でもそれは、それだけのことだ。
冬みたいに重く寒く陰鬱な曇り日だが、お風呂に桜の入浴剤を入れた。狭いアパートの、狭くうす暗い浴室に、まがいものの春の匂いがたちこめた。

とてもかなしいことだったが、墓地に母を納めると、私はこれで自由になった、と感じた。自由とは、それ以上失うもののない孤独な状態のことだ。

夕方だ。手料理の匂いは苦手だ。私は居間の窓をあけ、すぐに失敗に気がつく。手料理の匂いも私を不安な心持ちにさせるが、それが夕方の住宅地の匂いと混ざると、さらに心細い気持ちになる。ベランダにでたら動けなくなった。

「でもさ、予期せぬことにわずらわされた方がいいだろ、たぶん」
と、言った。
私にはそれは、でもよくわからない。

号泣する準備はできていた

私の旅はいつもそんなふうだった。自分で土地を選び、自分でお金を貯め、自分で一人旅をしておきながら、あっさり打ちのめされる。寒さや暑さにうんざりし、孤独を苦痛に思い、こんな場所にはもう二度と来ないぞ、と思う。
そうしてそれでいて、日本に帰っていくらもたたないうちに、私はまた旅にでたくなり、土地を選びお金を貯め、身のまわりの物だけを持って家をとび出してしまうのだった。

「おはなしをして」
顔も語尾も上げ、さあどうぞ、いいわよ、とでもいうようになつきは言う。

私たちは幸福だった。傍若無人で、こわいものなしだった。あるいは、何かを恐れることだけを恐れた。

私は姪に尋ねてみる。彼女はまじめな顔でそれについて考え、
「ときどきは泣く」
と、こたえた。それをいいとも悪いとも思っていない風情で。
私はなんだか幸福な気持ちになる。