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本は厚いものから読むか、薄いものから読むか

私の昔の上司で、今は立命館APUの学長になっている出口さんは、以前、本の読み方について「ある領域について勉強をしたい時には、本屋に行ってその領域の本をたくさん買ったら、その中で厚いものから読んでいくべし」とおっしゃっていた(ように思う)。

私の解釈ですので間違っているかもしれませんが、こういうことなのかなと。

厚い本は情報量も多いし、議論も枝葉末節まで丁寧にしているため、最初はカオスでよくわからなくても、そのいろいろな細かい議論や事実をまずはばーっと脳内にインプットしていけば、徐々にそこから創発的にいろいろなアイデアや概念、理解が生まれてくる。

そこから徐々に薄い本を読んでいくと、薄い本は細かいことを捨象して残った骨組み、構造を書いてあることが多いので、自分がカオスの中から取り出して理解した意味と比較検討して、気づかなかった整理の仕方、解釈の仕方が立ち現われてくる。そこで重層的な深い理解が生まれる。

そうして、その領域の「全部」が丸ごと掌の上に乗り、全体感を持った理解が可能となると。

逆に、薄い本から読んでしまうと、ある解釈の仕方に縛られてしまい、カオスをみてもその他の意味を感じにくくなる。厚い本を読むという行為が、ただ単に薄い本が主張している枠組みを確認するだけの作業に矮小化されてしまう。本来なら得られた理解が失われてしまう。

だから、本当は「厚い本」から読む方がいいと私も思います。

しかし。カオスに対峙して、そこから何らかの意味合いを見出すというのはかなり難しい。カオスの中にある細かい刺激物に対する受容器が心の中になければ、いつまで経ってもそこにはカオスがあるまま。

そのため、別にその領域について、薄く浅い理解でよいというのであれば、薄い本から呼んでおくのもありかもしれません。

ただし、その場合、知ったかぶりにならないように、おとなしくしといた方がよいのでしょう…

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