二十歳の原点

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である。
高野悦子『二十歳の原点』

高野悦子の『二十歳の原点』を読みました。
日記ですが、リアルな学生運動の熱と、一人考える人間の肉体が浮かび上がって、生々しいです。

最近、学生運動なんてなかなか聞きません。両親が大学生の頃にはもうとっくに下火なのだから当然ではあるのですが。
フォロワーが全学連の一員なのでその話をたまに聞くくらいです。
フォロワーこと彼、彼はたいへん良いです。迷惑だのなんだと言われようが彼の中には身体に運動に参加せよと指示を出せるほど確固たる意志があって、それをただなんとなく騒がしいなぁで一瞥できるだけの傍観者である自覚を私は持っており、そのために彼には尊敬の念しかないわけです。

高野悦子も、「代々木系か反代々木系か」といった思想を問われ、分断への悲しさと傍観者ではいられないという気持ちから学生運動に入っていきました。当時は今よりもカジュアルに学生運動が傍にあっただろうので、私のような意志があるんだかないんだかの人間もそんな感じなら友人ととりあえず学生運動していたような気がします。

私の興味の矛先はもっぱら、京都での学生生活について向いていました。私の通っている大学も登場して(名前だけですが)、おもしろい気分です。
さらに、アジビラ(アジテーションのビラ)、ブル新(ブルジョワ新聞)、民主化棒(民青が持っていたカシの木の角棒)、ジュラ(ジュラルミン)、などの用語が私を楽しませます。それだけでなく、実際に起きた運動と事件とそれへの印象が書かれていて、学生目線の小さい歴史が綴られています。私は知らないことばかりで、昔の学生の方が私の万倍大人で考えていたんだろうなと思います。

高野悦子自身の人生にあまり興味の矛先が向かなかったのは、やはりそれらの文章がかなり私的な日記要素が強かったからです。ジャック・リゴーやシモーヌ・ヴェイユと違うのも、このあたりです。罪悪感と申し訳なさが湧いてきます。性欲、男への渇望、失恋、期待、その周辺の具体には、言及を避けたい気分です。
それにこの本は、彼女が自殺して数年経ってから出版されており、この文章を彼女がかつて渇望した男が読んでいたのかと思うと、他人事ながら具合が悪くなりそうです。

特に身につまされるような、自分ごととして突っかかってきたのは以下の部分です。多めに引用します。

 大学にとって、あなたという人間──学生と呼ばれている人間──が必要なのかと思ってみたことはありますか? ちょっと考えてほしい。あなたが大学から受けとったものは、合格通知と入学金支払のための為替用紙と、授業料催促の手紙だけだったろう。そしてあなたは、立命館大学の学生であるという学生証をもらった。
(中略)
彼らのやっている学問とは生きている人間──河原町で靴みがきをしているおじさん、朝早く道路を掃除しているおばさんたちにとって何の意味もなしていないものなのだ。かえって彼らを圧迫しているものだということを考えてみたことがありますか。
 あなたは、授業料を払って学生証をもらい、講義を受けていることについて何とも思わないのだろうか。あなたが本当に生きようとする人間ならばSiとは断じていえない筈だと、私は思うのだが。
 この”平和なる””自由なる”キャンパスにおいて、あなたは何をしようとするのだろうか。
高野悦子『二十歳の原点』5月13日
 大学に入りたての頃よくきかれたものだ。「あなたは何故大学にきたの」と。私は答えた。「なんとなく」と。勉強もできない方ではなかったし、家庭の状況も良かったから、日本史専攻に籍をおいているけれど、英語でも体育でも何でもよかった。就職するのはいやだし、大学にでも行こうかって気になり、なんとなくきた。何となく大学に入ったのである。
(中略)
 現在の資本が労働力を欲しているが故に、私は、そして私たちは学力という名の選別機にのせられ、なんとなく大学に入り、商品となってゆく。すべては資本の論理によって動かされ、資本を強大にしているだけである。
(中略)
 大学の存在、大学における学問の存在は、資本の論理に貫かれている。その大学を、学問を、教育を、また「なんとなく学生になったこと」を否定し、私は真の学生を、それこそ血みどろの闘いの中で永続的にさがし求めていく。大学の存在は反体制の存在でなければならない。
高野悦子『二十歳の原点』5月28日
授業料を支払うことによって得られる学生の権利とは何か。学生であるということは一体どういうことなのか。授業料を払って大教室の眠たい授業に出ていれば人は彼を学生であるという。しかるに真に大学を、学問を、教育のあり方を考えるものに対しては、人はあれを学生でないという。行なっていることをみて学生のやることではないという。
高野悦子『二十歳の原点』5月30日

かなり耳が痛いです。
明日生きるための金を稼いでいるわけでもなく、生きることそれ以上を求め、
金を払って学問とやらに勤しんでいる人間というわけです。
私は大学で何を得て、何を取りこぼしてしまったのか、もう一度考え直したいです。現在地さえあやふやなのに、将来について考えれるわけはないのです。今頃気づいてしまいました。

私は賢い人が好きですが、賢いとは何なのでしょうか。ほどほどの大学で、ほどほどに話を聞いてほどほどで卒業する私よりも、茄子を水にさらしておくと味が全然変わるんだよと教えてくれたあの人のほうが、確かに賢いのだと感じます。
私の持つ賢さとは、社会の中で、他人から見て、ようやくあらわれる大学名でしかないのです。そしてその大学にも、なんとなくで入っています。

ちなみに高野悦子は全共闘に肩を並べた人間ですから、上で引用した文章はそういう人間の文章です。合わない人には合わないし、私も素直に受け止めているわけではありません。
思想。

生々しい血肉を感じるのは、初めは勇気がなかった筆者がだんだんハードルを乗り越えていくところです。
カミソリで指先を切り、マッチに火をつけて熱と痛みを感じる最後まで持ち続けたり、戯れにコードを首に巻いてみたり、自分自身の手で首を絞めたり……たばこと酒にお金を注ぎ込み、孤独な貧乏学生となり、日記も開かないようになり、線路に飛び込みました。
そういう意味で、少し落ち込みます。私もカミソリで自身を傷つける勇気はないのですが、初めはそんな勇気もなかった人間が線路に飛び込めるようになるまでの記録が、この本でした。

自罰的にこうすべきであるという考え方を持ちやすく、それに行動力が合わさると、死ぬべきという考え方に接続された時には死ぬことが可能になるのかもしれない。

二十歳の原点を私は昔の大学の学生を眺める気持ちで読んでいましたが、この本の出版意図はそんなところにあるのではなく、親と子のズレ、どうして自殺まで至ったのかというところ、とにかくタイトルの高野の『二十歳の原点』が全てであろうということです。
高野悦子の親が本の出版に寄せて書いた「失格者の弁」は、子供目線だと何を言っているのだ、分からずやめ、と思うのですが、親という立場になるとまた感じ方が変わるのでしょうか。

突然敬語で書いたのは、この本の雰囲気が私とどこか似ていると言われたからです。それが理由で読み始めたのですが、文体なのか、とにかく何かが似ているらしいので、いつもと違う敬語でうやむやにしてやろうと思います。

あと、この本について少し調べていると“二十歳の原点 名言”みたいなのが出てきてウッとなりました。
これは名言!というのが死んだ人間の私的な日記を親が開いて見せてきたものに言うことなのか、もしそうなのであれば、いえ、そうであるから、Twitterには名言ばかり転がっている、というわけなのでしょうか。

おしまい

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