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正しさは責任を隠す

東京へ向かう新幹線の中、つらつら思う。

昨日、なんとなくつけたテレビに画家の藤田嗣治のことが取り上げられていた。

藤田嗣治はフランスで絵を学校で習わず、独学で自分にしか描けない絵を目指し、その後、高い評価を得た。

女性の肌の色が、他にない透明感のある乳白色で、フジタホワイトと呼ばれ、絶賛されたのである。

しかし、日本の画家たちからは、おかっぱやイイヤリング、服装などの風貌や他の人と戯れるライフスタイルをバッシングされたのである。今でなら大炎上ということだろう。

実は、藤田はお酒が飲めず、ほとんどの時間を絵を描くことに費やしたのだった。

この話を聴いて、先日NEWSゼロに出演した、落合陽一さんのことを思い出した。

このテレビ出演が炎上したのだが、否定派は下駄履きや服装、態度や姿勢についてを語り、肯定派は語る内容を絶賛した。

「こうあるべき」という正しさをもって非難する人は、自己責任を負わない。

「私はこう考える」という表現には、責任元が記される。

正しさの庇護のもとに、自分のミッションを果たそうと奮闘している人を多くの声でバッシングするのが、昔も今も変わらないのだな。

安全圏にいるようでいて、非難のブーメランは自分に返ってくる。正しさの束縛として。

後に藤田嗣治は、画家は喧嘩をせず、絵を描けと言ったそうだ。

賛成だ。自分のことをやろう。

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