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ソヴィエトの革命文学を読もう(提案)

 まずはじめに、ここで言うところの「ソヴィエトの革命文学」とは社会主義革命及びそれに続く動乱期(市民戦時代)を扱った文学を指す。いわゆる「社会主義リアリズム」の初期の作品群である。「社会主義リアリズム」がなんであるかを説明するのは非常に難しいが、ざっくり言えば「社会主義的イデオロギーを至上のものとし、あるがままの生活を描きながらあるべき生活への展望を描く」文学と言えるだろう(本当に簡単かつ不十分な説明ではあるが)。イデオロギーが問題となるということは、作品のイデオロギーに対する精査、即ち外(または上)からの介入を要するということでもある。ファジェーエフが『若き親衛隊』の改作を命じられたのが一番大きな事実だろう。このように社会主義リアリズムは上から押しつけられた訓育的文学として現代では見向きもされないような遺物である。しかし、やはりロシア文学に変わりはない。ゴーゴリやトルストイの息吹きがそこにはしっかりと感じられる。
 
 ここで紹介する全ての作品が社会主義リアリズムに属するとは言い難いが、社会主義的な価値観が前面に押し出されているという点では共通している。個人主義に対する忌避、ブルジョアに対する敵意、集団的労働に対する賛美等々。私自身このジャンルを読み始めてまだ日が浅く勉強中の身ではあるが、それでも読んで面白いと感じた作品を紹介していきたいと思う。より多くの作品を読んでいく内に現在持っている視点を失う恐れがあるので、これはそれを確認し残すための作業である。しかし、紹介の前に言うべきことがある。とあるロシア文学者は社会主義リアリズムを指して「博物館の中の標本」と言ったが、これは実に言い得て妙だと思う。博物館の中の標本は博物館の中でガラスケース越しに観察すべきものであって、それをケースを取っ払って勝手に外に持ち出してはならない。社会主義リアリズムもこれと同じで、ある程度の距離を保ちながら、「こういうものも存在するのか」という観察的な態度で臨むべきものだと思う。それでは紹介していこう。

            ①ファジェーエフ『壊滅』

 作家であり党員としても精力的な活動を行ったファジェーエフの代表作。極東の赤軍パルチザンが干渉軍の急襲により壊滅(最終的に19人しか残っていない)するまでの物語である。この作品に見られるトルストイからの影響はよく指摘されることであるが、このさほど長くない物語の中で諸々の登場人物の性格を極めて豊かに描写し得たファジェーエフの手腕は確かにトルストイ的だと言っていいと思う。故に読者はこの作品に出てくる人物一人一人から強い印象を受けるのである。無知で粗暴ながら次第に己の義務に目覚めていくモロースカ、理想に燃えてパルチザンに身を投じたは良いが野卑な農民たちに辟易し孤立していくインテリのメーチック、そのメーチックにも親切に対する快活な副官バクラーノフ、鋭敏な頭脳の持ち主で自ら危険な任務を引き受けるメテーリツァ等々。モロースカは命と引き換えに味方を救い、メテーリツァは敵に捕まり惨殺され、バクラーノフは敵陣突破の最中に命を落とし、そうして隊長のレヴィンソンを含む生き残った19人はとぼとぼと歩いていく。ようやく深い森を抜けた彼らの眼前には明るく雄大な極東の自然が広がっていた。レヴィンソンは悲しむことをやめ、残された己の義務を果たそうと心に誓う。古くから邦訳が多く出ているが代表的なものは以下の通り。

(1)ファジェーエフ『壊滅』(『ロシア文学全集第13巻』所収、修道社、1957、蔵原惟人訳)
(2)ファジェーエフ『壊滅・氾濫』(新日本出版社、1966、蔵原惟人・山村房次訳)
(3)ファデーエフ『壊滅』(岩波書店、1960、蔵原惟人訳)
(4)ファジェーエフ『壊滅』(『ロシア・ソヴィエト文学全集第28』所収、平凡社、1965、蔵原惟人訳)

          ②セラフィモーヴィチ『鉄の流れ』

 帝政末期から活躍していた作家セラフィモーヴィチ(本名ポポフ)の長編。敵地に取り残された赤軍が味方に合流するために死に物狂いの行軍を敢行する物語であるが、これはタマン半島に閉じ込められた赤軍が避難民を伴いながら白軍を突破し、遂にはアルマヴィルにいる友軍との合流に成功したという史実に基づいている。セラフィモーヴィチはこの史実を描くに当たって敢えて人物一人一人の描写を抑え、集団の持つ心理と力を強調する方法を採った。彼らは一つの流れとなって困難を押し除け突き進んでいく。敵は出る。山で嵐に遭う。集団ヒステリーが起こる。苦しい決断に迫られる。しかし、この苦難の果てに彼らは一つの確信を抱くようになる。行軍に加わった老婆のゴルピーナが物語の最後で語る言葉がまさにそれである。夜の静寂を背景にしたラストシーンは読者に深い余韻を残すだろう。余談だが、この歴史的出来事はA.N.トルストイ『苦悩の中を行く』でも取り上げられている。これも古くから邦訳が出ているが主なものは以下の通り。

(1)セラフィモーウィッチ『鐵の流れ』(青銅社、1950、蔵原惟人訳)
(2)セラフィモーヰッチ『鉄の流れ』(新潮社、1955、工藤精一郎訳)
(3)セラフィモーヴィチ『鉄の流れ』(光陽出版社、1999、西本昭治訳)

           ③リベジンスキー『一週間』


 『一週間』は、社会主義革命とそれに続く動乱期を描いた文学としては、最も早く世に出た作品のうちの一つである。食糧危機の迫るとある地方都市が舞台。種蒔きの時季がまもなく訪れるというのに、当の種子が無い。あるにはあるが、それを街へと運ぶには燃料が必要不可欠である。ではその燃料をどこから手に入れれば良いのか?食料問題は即ち燃料問題である。方法はある。それは労働者を全面的に動員し、公園や修道院の森を伐採して薪を得る方法である。しかしそのためには街の守備隊を、労働者の監督官として動員する必要がある。つまりその間、街を守る人間が一切居なくなる。背に腹はかえられぬ。飢饉は反革命を招くからである。かくして燃料調達計画が実施されるが、果たせるかな、守備隊の不在を突いて匪賊たちが街へと押し寄せコミュニストたちを次から次へと惨殺していく。なんとか賊たちを追い払うことに成功するが、主だった人たちはほとんど居なくなってしまった。それでも仕事を続けなければいけない。生き残った者たちが粛々と会議をすすめていくシーンでこの物語は終わる。構成の甘さや描写の不足が目立ち、確かに芸術的には上記二作品に比べて劣るが、ソヴィエトの最も早い時期に現れた本格的な社会主義リアリズム文学として意義深い作品である。日本のプロレタリア作家に与えた影響も大きい。ちなみに作者のリベジンスキーはトロツキストの嫌疑を受けて党を除名されたことがあるらしい(後に復帰)。邦訳は以下の通り。

(1)リベデインスキー『一週間』(改造社、1929、池谷信三郎訳)
(2)リベヂンスキー『一週間』(『新興文学全集第23巻』所収、平凡社、1929、小宮山明敏訳)
(3)リベヂンスキイ『一週間』(平凡社、1930、小宮山明敏訳)
(4)リベジンスキイ『一週間』(『二〇世紀ロシア文学アンソロジー』所収、新樹社、2002、杉山秀子編訳)

          ④バフメーチェフ『マルチンの犯罪』   
 

 社会主義リアリズムにおける主人公の問題は非常に難しい。何をどのように描くべきか?理想的な革命家か?しかし、それは英雄主義では無いだろうか?リアリズムからかけ離れはしないだろうか?この問題にバフメーチェフは反対側から近付くような形で答えた。即ち、否定的主人公であるマルチンを創造したのである。マルチンは強い意思を持った活動家であるが、しかしそれと同時に少し観念的で冒険主義的なところがある。このマルチンが危機を前にとある失態を犯す。マルチンは自分を必要以上に責め、その自罰的な気分が彼と周囲の人間との間に軋轢を生む。単なる失敗として呑み込んでしまうことが彼にはどうしても出来ない。自分のしたことに対して周囲が黙っているのが彼には我慢ならない。マルチンの心理、出来事の意味をあまりにも大きく受け取り己を追い込んでいく心理の描写はドストエフスキーを感じさせるところがある。会議でマルチンが罰を求めて己の「犯罪」を打ち明けるシーンは、マルチンと周囲との温度差がこれでもかと描かれ、読んでいて気が滅入るほどである。マルチンの失態を知って読者はどう思うだろうか?些細なことだと思うだろうか?卑怯な許されざることだと思うだろうか?邦訳は以下の通り。

(1)バフメーチエフ『マルチンの犯罪』(鉄塔書院、1931、杉本良吉訳)
(2)バフメーチエフ『マルチンの罪』(芝書店、1936、杉本良吉・蔵原惟人訳)

         ⑤ビリ=ベロツェルコフスキー『暴風』

 革命の現実を描いたのはなにも小説だけでは無い。戯曲の世界にもいわゆる革命劇(宣伝劇)が生まれた。その代表的な作品が劇作家ビリ=ベロツェルコフスキーの『暴風』である。この戯曲の中でベロツェルコフスキーは市民戦時代の一地方都市における混乱と闘争をリアリスティックに描き出している。病気の蔓延、物資の不足、不穏分子らによる妨害工作、上流階級からの反発、そうした障害の数々が暴風の如く赤軍を襲うが、その暴風のうちにあっても赤軍は何とか踏み止まり遂には白軍の撃退に成功する。この作品においてベロツェルコフスキーは英雄的な人物を登場させていない。彼は際立った個性を描くようなことはせず、状況とその状況下における種々の人間の言動を重視する。それ故にこの作品では極めて多くの人物が登場する。彼らは状況の変化に対して怒り戸惑いながらも困難を解決しようと奮戦する。そうしてベロツェルコフスキーは革命を現実的なスケールにおいて示そうとしたのでは無いだろうか。邦訳は以下の通り。

(1)ビリ・ベロツエルコフスキイ『暴風』(『世界戯曲全集第27巻』所収、近代社、1929、熊澤復六訳)
(2)ビリ・ベロツエルコフスキー『暴風』(ビリ・ベロツエルコフスキー『舵を左へ!』所収、衆人社、1930、熊澤復六訳)

        ⑥トレニョフ『リュボーフィ・ヤロワーヤ』

 短編作家・劇作家トレニョフの『リュボーフィ・ヤロワーヤ』も革命劇の一つ。『暴風』がリアリスチックなものなら、この『リュボーフィ・ヤロワーヤ』は極めてドラマチックな戯曲である。主人公リュボーフィが死に別れたはずの夫に出会うのであるが、その夫は白軍側のスパイとして暗躍しているという、この一点で既に『暴風』と趣を異にしている。リュボーフィは一町民に過ぎない。夫のミハイルはリュボーフィを側に置きたい一心で説き伏せるが、心情的に赤軍の味方である彼女はミハイルを拒絶する。赤軍を根絶やしにせねば気の済まないミハイルと、囚われ死を待つ赤軍を何とかして助けようとするリュボーフィとの間に最早和解の道は残されていない。ミハイルはやむを得ずリュボーフィを監禁するが、彼女は味方の助力もありなんとか脱出。そこからリュボーフィは恐るべき行動力を発揮し、労働者たちに隠された武器を提供して蜂起を成功へと導く。今度はミハイルが囚われた姿で彼女の前に現れるがリュボーフィは決別の印に顔を背ける。赤軍と白軍(及びそれらの同調者たち)が入り乱れて互いの腹を探り合うやり取りも多く、この点で心理ミステリー的な面白みもある。邦訳は以下の通り。

(1)トゥレニョフ『リュボオヴィ・ヤロワーヤ』(『近代劇全集第三十四巻』所収、第一書房、1930、昇曙夢訳)
(2)トレーネフ『赤旗の下に:原題リュボフィ・ヤロワーヤ』(黎明社、1930、茂森唯士・田村亥佐雄訳)

 ほんの一部ではあるがここに6つの作品を挙げた。これらの作品を読んで気づくことはそのオプチミズムである。『壊滅』のような、文字通り壊滅的なラストを迎える作品であっても、そこには確かに未来への希望が感じられる。それは「社会を自分たちの手で一から作っていくのだ」という自負心から出たものではないだろうか。この点で作中の人物のほとんど全てが出口の無い状況に喘いでいるチェーホフの諸作品と好対照をなしている。いや、チェーホフの作品にも未来への希望は語られている。しかしそれは慰めに近い仄かなものである。『ワーニャ伯父さん』のソーニャは「やがてほっと息がつける時がきますよ」と語る。上のオプチミズムはこれとは全く異なる。もっと現実的な、確信に満ちたものである。ソーニャやオーリガたちがただ望むに過ぎなかったものを、レヴィンソンやコジューフたちは実際に目の前に見ているのだと言うことも出来るかもしれない。しかしこのようなオプチミズムは長続きするものではない。時代的に限定されたロシア文学、それがソヴィエトの革命文学である。

 


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