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中編小説「押忍」(74/最終回)

「タクミ、みんなオマエの応援に来てくれた。ちゃんと礼を言って、横浜を離れることと空手をやめること、ちょうどいい機会じゃねえか、ここで自分の口から伝えろ」
 病室の空気が揺れました。そっと目を交わすベテラン会員は既にそれとなく気付いていたのでしょう。一番離れたところに立っていた孝子さんが、胸の前で小さく拍手してくれるのが見えました。
「え、ムラタ先輩やめるの?」
「聞いてねえよ」
 ケンシロウが詰め寄るように顔を近づけてきました。「横浜を離れるってどういうことよ」
 僕はベッドから出て、仲間たちに向かって両腕をX字に交差させ、空手流の仁義を切り、みんなが同じ動作を返してくれるのを待って、簡潔に自分のこれからを伝えました。
 四月から秋田にある全寮制の高校に進むこと、寮には厳しい門限もあるため、そこから近所の新極北館所属の道場に通うのは難しいこと、だから空手をここで一旦やめるつもりでいたこと。
「いた?」師範が眉を上げました。過去形になってんじゃねえか。
「押忍」
 さっき加藤に言われたんです、勝ち逃げは許さないと。
「空手を完全に忘れてしまうことは、自分にはできないみたいです。今はまだ思いつきの段階ですが、まずは寮内で希望者を募り、同好会のような形でやってみようかと。キックミットが二つあれば、取り敢えずはすぐにでも始めることのできる競技ですし。フルコンタクト空手を正式な学校の部活動として認めてもらうのは厳しいでしょうけど」
「まずあり得ないね。だってキョクホク空手だぜ」
 その言葉にみんなで笑い、僕の緊張もほぐれました。
「同好会でも厳しいかもな。勉強に追われる毎日だろうし、誰も乗っかってくる奴はいない可能性だってある」
「一人ででも続けられる稽古はいくらでもありますし」
「まあ、タクミはそもそも昔は一人で練習してたようなもんだしな」
「それは禁句です」
 そして僕は師範に向かって改めて姿勢を正し、喉元にこみあげる万感の思い、止めどなく、果てしなく溢れ出てきそうな多くの言葉を呑み込み、一番大切な頼みごとだけを言葉にしました。
「退会ではなく、休会扱いでお願いします」
「言われなくともそのつもりでいたよ。夏休みになったら帰ってくるんだろ?」
「もちろん」「じゃあまたそこで指導の手伝いに入れや」「押忍」
そして僕は、目をうっすらと充血させた三人の同級生に顔を向けました。「オマエらは空手、やめねえだろ?」
 彼らは同時にうなずいてくれました。
「少しずつでいいから毎日練習して、早いとこ黒帯取ってくれ。それで三年後あたり、どこかの大会の会場で対戦相手として再会しようぜ」
 彼らは顔を見合せ、再び首を縦に振りました。
「ちゃんと返事してくれよ」「―ああ」
「空手の挨拶でそんな言い方あったか?」
「押忍」
「声が小さくねえか?」
「押忍!」
 母さん。そういった訳で僕は毎日をまずまず楽しく送っています。
 来週、体にはまだサラシを巻いたまま、雪残る秋田に住み処を変えます。

 三年後の自分は何をしているのか。四年後は、五年後は。
 不安よりは楽しみの方が大きく、そしてそんな人生をプレゼントしてくれた母さんに、どれだけ感謝の言葉を重ねても、まだ足りません。
 母さんは僕にとっていつまでも、世界一の母親です。

 完
 ※最後までお付き合いくださり、ありがとうございました

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