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中編小説「押忍」(73)

 年下に病院送りにされたことは屈辱でしたが、相手も同じように鼻骨骨折で同じ病院に入院中と知り、そして僕は明日には骨の位置を戻して固定すれば退院できるものの、マサキはもう二、三日加療を要すると聞き、溜飲を下げました。
 試合でも喧嘩も、俺の勝ち。
 見舞いに来た加藤の首からは、新極北館全日本大会中学生軽量部の優勝メダルがこれ見よがしにぶら下がっていました。
「今日のムラタが相手だったら、俺は負けてたと思う」
 そして僕の肩に置かれた奴の手。捻挫した指が数本、紫色に腫れ上がり、甲は擦過傷まみれで肌色部分の方が少ないぐらいでした。
 賞金もなく、褒賞もない。フルコンタクト空手の勝者に与えられるのは体の傷と名誉だけ。
 それでも加藤は、このボロボロになった拳で今回も頂点まで這い上がったのです。
「いや、認めたかねえけど今現在の実力はオマエが一番だよ。二連覇おめでとう。ただ、極北空手は極北空手だ。相撲空手じゃねえ」
「その言葉を詫びるのが、今日来た目的の一つ目や」
 そして王者は深々と頭を下げてくれました。
「もういいよ。それより二つ目の目的を聞かせろよ」
 僕の言葉に、加藤は顔を上げました。
「空手、やめるなと頼みにきた。秋田に行ったらしばらくは稽古も無理やろけど、絶対復活せえ、そう頼みにきたんや。結局最後までオマエにリベンジできる機会を与えられず、勝ち逃げされた俺の身にもなってみい」
「ー考えとくよ」
 連覇を果たした強者は、その傷だらけの右手を差し出してきました。「頼むで」
「分かったよ」僕はその手を強く握り返しました。
「怪我、はよ治せよ」
「ああ。大阪にはいつ戻る?」
「マサキが退院するまで、ウチの二宮師範代とコーチが残ることになってな。俺も明日まで付き合うことにした」
「明日までか」
 そして僕はベッドの横に座る木下医師に微笑みかけました。医師は呆れたように首を振りました。君のお母さんは病院の言いつけをよく守った人だったのに。
「安静にといっても、すぐ退院するつもりなんだろ?骨さえ固定されれば普段の生活には支障はない。ここで言う『普段の生活』に空手の練習や組手は含まれないから、そのつもりで」
「人生観の違いってのは恐ろしいですね、先生」
 僕の言葉に木下医師は本気で怒り、君の身に何かあれば僕は天国のお母さんにどう謝ればいい?と必殺のコメントを繰り出し、僕はそれでようやく口を閉ざし、翌日、もちろん空手着を身にまとうことなく、この永遠のライバルを僕の生まれ育った伊勢佐木町に連れて行き、母さんと過ごした賃貸マンションを外から見せてやりました。
 こんなやかましい場所で毎晩ムラタは眠れとったんや、凄いなあ、という本気なのか皮肉なのか分からない彼の言葉に、オマエの家はゴビ砂漠にでもあんのかよと突っ込んだら、アホか俺の住まいは高槻じゃ忘れたんか、と答えてきました。憎めない奴です。
 
 病室での出来事に話を戻しましょう。
 そこには師範がいて、自分が指導する小学生がいて、昔は殆ど私闘のような組手ばかりを繰り返していた成年部の練習生がいて、そして夫を連れた孝子さんの姿がありました。
 もちろん、ジュン、オランゲ、そしてケンシロウも、隣に立っていました。極北の仲間がひととおり集まるのを潮に、加藤はそっと病室を抜けました。
「また優勝できませんでしたよ」
 昔は会話を交わすこともなかった成人会員たちが、口々に応えてくれました。
「決勝まで進んで棄権てのは一番みっともねえな」
「加藤から逃げた気配が濃厚だね」
 よく頑張った、準優勝でも上出来だ、そんな言葉より遥かに、彼らの毒舌は僕の心を慰めてくれました。

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