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中編小説「押忍」(70)

「何でここにいるんだよ」
「たまたま通りかかってよ」
 プロボクサーを目指し、二年前より明らかに体の厚みが増した男は、にやけた笑みを浮かべながら僕の肩に腕を回してきました。
「この程度の男に気絶させられたのかと思うと、三年前にタイムスリップして自分を叱りつけてやりてえよ」
「何だオマエ?今ここであの時の続きをやってやろうか?」
 迫田は大笑いしながら僕の肩をそのまま二度、軽く叩きました。
「ムラタ、それそれ。その目だよ、オマエの本性は。きれいな組手でカッコつけてる場合じゃねえだろ」
 持つべき者は「そういう点だけは敏感な」先輩です。
 二回戦、試合開始の合図とともに僕は相手に飛び込み、なりふり構わず手足を出し続けました。昔少しばかり名の売れた選手であったことを、僕はずっと引きずっていたのです。まずは相手の攻撃を受けてやるかなどと、しょうもない色気を組手に反映させようとしていたのです。そんな僕の思い上がりを、迫田の叱咤が打ち砕いてくれました。そう、今や強豪選手でも何でもない自分は、しゃかりきになって相手に向かい、歯を喰いしばって両足で踏ん張って、それでようやく相手と対等なのです。
 二回選、三回戦はともに一本勝ちを収めることができました。
 そして準決勝、勝ち上がってきたのは、「整同館のポスト加藤」と称されていた一つ年下、マサキと呼ばれていた中学二年生の選手でした。
 昨年の連休、彼とは大阪の整同館本部道場でスパーリングをした記憶がありました。
 加藤にズタボロにやられた僕に、ムラタ先輩いずれ試合場で!と元気よく声をかけてくれた、礼儀正しい男でした。
 その時の笑顔を封印し、試合前からガンを飛ばし続けてきた後輩に対して、そのケンカ買ってやると声を出してつぶやきました。ただ勝つだけじゃねえ、しっかり地べたに這わせてやる。
 本戦の最初の一分、明らかに気負い過ぎていていた相手は、整同館スタイルの特徴であるヒットアンドアウェイを忘れたかのように突っ込んできました。
「マサキ!落ち着かんかい!」
「自分の組手せえ!」
 あの時お世話になった二宮先生、そして加藤の怒鳴り声が聞こえてきました。
「タクミ、付き合ってやれ!」
 僕の背中にも、岡本師範や道場の仲間たちの声が響いてきました。オマエはその程度かよ!という迫田の声に、後でちょっとつきあえと心中で返事しつつ、近づいてくるマサキを反転してさばき、前かがみになった体勢を立て直そうとしながら彼がこちらに振り向いた時を狙って、右の上段蹴りを放ちました。
 頸動脈にヒットした蹴りに、相手がゆっくり沈み込んでいきました。
 喧騒。
 ずっと眠ってろ、という願いも空しく、敵は膝をつきながらもダウンは拒否し、僕を睨みつけながら立ち上がってきました。
 技有りを取られたことで、かえってマサキは落ち着きを取り戻したようでした。

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