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中編小説「押忍」(68)

 やがて拍手の中入場してきた孝子さんは、純白のドレスが道着と同じくらい似合っていました。加奈さんの咽び声が更に店内に響き渡りました。
 式が始まり、新婦の担当教授のスピーチが、孝子さんの日常を教えてくれました。癌病棟では常に患者の目線に合わせて話しかけていること、すい臓がんの早期発見のため膵管拡張と膵嚢胞の存在をいち早くキャッチする超音波技術向上を目指してフィールドワークを重ねていること、化学療法によって損なわれがちな女性の癌患者の尊厳を回復するための精神的ケアの確立を模索していること。
 彼女が教授の言葉を借りなくとも、「自分のことよりまず癌患者の心境を優先して物事を進める、理想的な医師のタマゴ」であることはよく分かりましたし、そしてそれと同じぐらい、彼女の夫も優れた医師であることが察せられました。
 新郎の友人のスピーチ。
「新郎が孝子さんをようやく落としたのは、この二年間で僕の知る限り十七回目のアタックの後でした。手術の手は神業的に早い彼が、女性ひとりを落とす手がなぜこれほど遅いのかは、病院七不思議のひとつに挙げられていました」
 しばらくご歓談くださいという司会のアナウンスを待って、僕はビール瓶を手に新郎新婦席に歩み寄りました。
「おめでとう」
「ありがとう」孝子さんの眼には光るものがありました。
「おめでとうございます」眼鏡の奥に優しそうな瞳を宿した新郎にビールを注ぎました。
「ありがとうございます。やっとお会いできました」
「僕のこと、ご存知ですか」
「さっきの友人のスピーチ、あれは事実です。今孝子の隣に僕が座っていられるのは、あなたのお母さんのお陰です。でもムラタさん、それでも僕はまだまだ男として物足りないそうです。どれほど孤独であろうとも自分を貫いて生きてきて、拳でブロックを割ることができる中学生の男の子を知っている、彼を一人で育て上げた誇り高い女性を知っている、と今日まで何度聞かされてきたことか。ムラタさん、僕は近いうちにあなたと対決しなければならないようです」
 そして僕ら二人は大笑いし、孝子さんは泣き笑いの表情を浮かべました。
 この人なら大丈夫。
 新郎が差し出した右手を、僕は握りました。思いのほか強い力で、外科医の体力を見せつけられる思いでした。
 新郎新婦がお色直しに入ります、アナウンサーがそう告げた時、少し意外な感じがしました。この質素で温かな結婚式に、お色直しが場違いなもののように思えたのです。
 新郎新婦が中座し、店内の照明が落とされ、スライドショーが始まった十分後、僕は悟りました。このスライドショーのために、孝子さんはわざわざお色直しの時間を設けたんだということを。

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