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中編小説「押忍」(61)

 新横浜駅から関内駅まで地下鉄で移動し、道中のコンビニで飲み物とつまみを買い、八月の湿った浜風に吹かれながら、僕らは道場に着きました。どれほど瀟洒な内装にリノベートしようが、無人の道場には汗と生乾きの道着の匂いが宿命的に充満していました。七年に渡って嗅ぎ続け、僕の皮膚にもきっと染み付いている匂い。
 僕らはサンドバッグの横に座り、互いのコップに互いの飲むべきものを注ぎ、そこで師範は前置きなく口を開きました。俺ならタクミの父親になれると言ったんだ。
「―いつ」
「オマエの中学入学式の翌日。迫田だったっけ?オマエが上級生を殴り倒して校長室に呼ばれた、その帰り道だ」
「母の答えは」
「私はあなたより歳上の子持ちだと。それを知った上でのプロポーズですと俺も言い返した。香さんはしばらく黙り、本気で仰ってくださるのなら、全てお話ししますと」
 そこで俺は、オマエたち親子の真実を知ったよ。
 話し終えて彼女は言った。私が結婚できないのは、ひとつには自分の好きな男はこれからもずっと変わらないから。そしてもうひとつは、自分にはタクミを育て上げる使命があるから。
「香さんこう続けた。私だって女だし、男に抱かれて過ごしたい夜だってある、岡本先生ならタクミのいい父親になってくれるのは疑いないし、自分を一番に愛することのない女を、そうと知りつつ大切にしてくれるということも分かる、でも駄目なんだとな」
「なぜ」
「偶然だな、俺も全く同じ質問を彼女にしたよ。将来もし先生との間に子供が産まれたら、その子を通して三人は本当に血の繋がった家族になってしまい、タクミをひとりにしてしまう、と彼女は答えた。そんな大袈裟な、と俺は思わずつぶやいて、それを聞いた香さんは悲しそうに微笑んだよ。将来を誓った相手が他の女性を妻とし、その両者が立て続けに世を去り、残された子供の母親となった私に、大袈裟な話などありませんと答えながらな。オマエが小学校に上がる時、皿を割ったのを誤魔化そうとして左眉を痙攣させた話は聞いたことがあるか?」
 母さんを火葬場で見送った帰り、加奈さんのバーで聞かされたエピソードを思い出し、僕は胸の内だけで、そっと溜息を吐きました。
「―ありますよ」
「その時、血の持つ力に打ちのめされたらしい。長年かけて一個ずつレンガを積み上げていくように築いてきた親子関係は一滴の血に勝てないのか、という無力感でしばらく何も考えられない状態が続いたんだと。だからこそ余計に、自分の再婚がタクミの心に一点でも染みをつける可能性があるなら、それは彼女の望むところではなかった」
「ー何もそこまで」
「香さんはオマエから二人の肉親を奪うこととなった原因は自分の不倫行為だ、という罪悪感から最後まで逃れられなかった。憎悪に満ちた言葉の応酬を経てタクミを引き取ったことで、結果的に親戚をも奪った。これ以上オマエを悲しませる可能性がある行為は、それが何であれもう香さんには無理だったんだよ」
「師範はそれで引き下がったんですか」

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