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中編小説「押忍」(55)

 左足の蹴りを放つ直前、予備動作として彼の左肘が少し上がるのを見つけた時は、意図的なフェイントの一種かとも疑いましたが、やがてそれは単なるクセだと分かりました。
 一メートルに未満の距離で相対し、あれだけのスピードと力強さを兼ね備えた攻撃を受け続けていると、そこまで目は届きません。仮に彼の微妙に上下する左肘に気付いたとしても、それは次に自分を襲ってくる第二第三の矢の前触れにしか感じ取れなかったでしょう。離れた場所からそのファイトスタイルの輪郭をつかむように観察してようやく見つけた、たった一つの綻びでした。
 加藤は器用にステップを変えますが、疲れてくると左足を前にするオーソドックススタイルで、極端な半身に留まる傾向がありました。左足を真横に出し、前進する相手に距離を詰めるのを許さず、それを嫌がる相手が下がった瞬間、左足を地面に下ろすことなく蹴りを散らすようにして追いかけ、無防備になった敵の腹部に右足のミドルキックを振ってくるというのが、彼の得意とするコンビネーションでした。
 フルコンタクト空手において攻撃部位となるのは両手両足両膝の六ヶ所、うち左足と左膝を封じさえすれば、オーソドックスのファイターから警戒するのは右足の動きだけです。
 とは言え、それはあくまでも理屈の話です。彼レベルの相手と戦うには、その作戦を落ち着いて実行するために、まずは膨張する一方の恐怖心を制御する必要があり、その時の僕は、まさにその点だけを心に留めてスパーリングを続けました。逃げ出したくなるような痛みを意識から追い出し、無数の拳は極北館仕込みの直腹筋で受け止め、左足による攻撃はヒジの動きから予測して無力化を図り、業を煮やした相手が右足を上げた瞬間、軸足となるその左足膝裏にローキックを当て、国内チャンプを何度も地面に転がすことができました。
 三ラウンド、計六分のスパーリングを終え、流れ出る汗を拭くことなく、加藤が握手を求めて来ました。
「今まで三味線ひいとったんか?」
「いや、クセだよ」
 僕は左肘の話をしました。暴力ゴリラが走ってきて、みたび僕の頭をはたいてきました。
「敵に塩送ってんじゃねえ!」
「押忍。ただ師範、俺たち別にこれでメシ食ってる訳じゃないんです。悪い所は指摘し合って、その上で真剣勝負の場で決着をつけたいんです」
 師範は呆れたように首を振りました。
「タクミ、クセを修正した加藤にはもう付け入る隙はねえぞ。オマエも腹括れよ」
 
 練習後は加藤も道場で寝泊まりしました。二人だけになり、ひとしきり空手の話を終えると、絶対王者もただの中学三年生でした。
「なあ、ムラタ」
 照明を落として、曇りガラスを通して街の灯がうっすらと室内に滲む道場。
 十五歳の外泊は、部屋の電気が消えてからが夜でした。
「高校受験はどうすんねん?」
「一応応志望校は決めたよ」
 僕は秋田県にある全寮制の高校の名を告げました。
「秋田?何でまた。横浜に腐るほど高校はあるやろ」
「そこは授業を全て英語でやるんだよ。そっち方面で俺は生きていきたくてさ」

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