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中編小説「押忍」(48)

 ゴールデンウィーク前にかかってきた、未登録番号からの電話。
「岡本先生からオマエの番号、教えてもろた」
 自信に満ち満ちた加藤の声が錐のように胸を刺すのを感じながら、僕はひそやかな深呼吸とともに、まずは祝福の言葉を相手に伝えました。
「久しぶりだね、加藤。今更だけど3月の新キョクホク全日本大会、優勝おめでとう。他流派から勝ち上がるのは凄いことだよ」
「でもまだ俺には倒すべき相手がおるけどな」
 僕の沈黙を救うように、加藤は明るい声で続けました。
「連休の間、大阪に遊びにきいへんか?」
「大阪?」
「うん、良かったらウチらの練習に参加したってや」
 それは極北館の前館長の生前では、絶対に実現不可能な交流でした。
「面白そうだけど、ます師範に相談しないと」
「岡本先生には、ウチの師範からもう仁義は切ってるで。規制緩和っちゅうやつや」
 加藤の笑い声が、僕の胸の内に火を灯してくれました。
 その頃僕は、平日はロクに体を動かすことなく受験勉強に没頭していました。空手は人生のファーストプライオリティの位置には既になく、これで終わっていいのかというもう一人の自分の囁きを、努めて意識の外に置きながら過ごす毎日でした。
 電話を切り、僕は叔父に大阪行きの許可をもらうためリビングへと向かいました。

 新大阪駅まで迎えに来てくれた加藤について大阪駅で環状線に乗り換え、桜ノ宮駅で下車すると、駅前に『KARATE 整同館本部道場』の看板を掲げた建物がそこにありました。
「よう来てくれました。ウチのガキども、遠慮なくシバき上げたってください」
 二宮と名乗った四十前後おぼしき師範代の、道着の隙間から見える胸板と腹筋は如実に彼のストイックな毎日を物語っていました。
 稽古が始まる前、十五歳で既に本部道場内でも一目置かれる存在となっていた加藤は僕を前に呼んで、練習生に紹介してくれました。
「今日のスペシャルゲスト、新極北館の村田巧さんです。俺の最強の相手や」
 整同館の道場内は音楽が流れ、年齢性別経験年数に関係なく一切の敬語もなく、雑談も笑い声も自由な、伝統的な極北館本部の風景とは全く対照的なものでした。
 一時間半の基本稽古が終わり、加藤が声をかけてきました。
「ムラタ、スパーリングは当然やっていくやろ?」
 防具をつけた状態とは言え、一年二ケ月ぶりに拳を合わせる加藤とのスパーリングは、「軽めに行こか」という彼の言葉などお互いに守る訳ないことを、お互いがよく知っていました。開始数秒でこめかみに喰らった上段蹴りは、素足であれば僕を倒していはずです。
 左のミドルキックを出した瞬間、相手は時計回りに半回転して右の後ろ蹴りを入れてきました。それは前に僕が彼を転がした技でした。マトモに入っていれば、僕はそこでも倒されていたはずでしたが、加藤はぎりぎりの位置で右足の先を振り、それを僕の腹にめり込ませる代わりに、道着に音を立てて蹴り過ごさせました。
 何もできない二分が過ぎました。
「残り一分!」
 タイムキーパーのかけ声とともに、加藤は周囲で見ている道場生には分からない、でも一番近くで闘っている僕には充分に分かる程度にスピードを落とし、僕の攻撃を何発かもらってくれました。
「さすがムラタや」
 大声で僕を褒めた彼は、後で再会を祝してメシでも行こうやと誘ってきました。
 その後何人かとスパーリングしましたが、自分が何しに大阪まで来たのかが分からなくなるほど、僕の動きは相手に失礼なものでした。

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