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中編小説「押忍」(66)

 苦しかった広島での中学時代。故郷には二度と帰るつもりもなかったのに、あなたたちにカッコいい親子関係を見せてもらったお蔭で、私も父母が懐かしくなって、前回の冬休みには上京後初めて帰省しました。喜んで私を迎え入れてくれた両親の姿に安堵し、私は一体何に悩んでいたのだろう、と拍子抜けする思いもありました。ちょうどその帰省中にあなたが電話をかけてきてくれて、わざわざ宮島まで来てくれたことは、神様の粋な差配だったのでしょうね。これからも正月ごとに帰省するつもりです。その点でも私は巧くん親子に感謝しなければいけません。
 一つ告白しましょうか。
 七歳という年齢差もあって、私があなたに女として恋心を抱くことはありませんでした。でも、年齢差があるから恋に至らなかった、とわざわざ理由づけしなければならないほどには、あなたは私にとって気になる存在でした。
 道場でのあなたは強くておっかなくて、以前は常に他人を遮断していました。私にもそういう人の気持ちは分かるし、だからそんなあなたに不快感を持つことはなかったけれど、もちろん好感を持つことも、正直最初はありませんでした。
 でも、香さんの病名が明らかになった夜、私に電話をかけてきた時のあなたの声は、とても弱々しいものでした。深い井戸に落ちた子猫が助けを求めるようなその声に、私はあなたが歩んできた人生を感じ取ることができたと書いたら、生意気に過ぎるでしょうか。
 結果として巧くんは、私の人生では初めての親友になりました。そして香さんと出会い、加奈さんともスナックで何度も盃を交わし、そうして道場や大学でも少しずつ話し相手を増やしていきました。ゆっくりとしたペースではあるけれど、人を信じる作業にもう一度踏み出すことができたのです。挙句の果てに人妻だよ、この私が。
 あなたがあの夜、もし私に電話をかけてこなかったら、その後の自分の人生はどうなっていたかを想像すると、背中が凍りつきます。
 私があなたをそう思っているように、あなたが私のことを生涯の友人だとみなしくれたら、これに勝る喜びはありません。巧くんがハタチになったら、是非一緒に飲もうね。可愛い看護師さん紹介してあげるから、今から楽しみに待ってろよ。
 じゃあ、お互い次の山を気合で乗り越えよう! 押忍 孝子』
 
 手紙を読み終え、僕は携帯のボタンを押し、電波の向こうの相手に話しかけていました。
 すみません、直接会って相談すべきことなんですが、今この機会を逃したら話せない気がしたんです。
 相手はじっと黙ったままでいてくれました。長い間準備していた言葉を、僕は息をするのも忘れたように吐露し続けました。
「今まで言わずにおいて、申し訳ございませんでした」
「まあ、何となく気付いていたよ」
「ーそうですか。そうですよね」
「オマエの決めた道だ。俺からぐだぐだ言うことは何もない。ただ一つ注文をつけるとしたら、絶対に合格しろ、それだけだ」
「押忍」

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