見出し画像

中編小説「押忍」(63)

 よし、と僕は勢いをつけて立ち上がりました。
「ケンシロウ、よく決心した。俺も応援する」
「うん」
「道場での返事は押忍だ」
「押忍」
「白帯の試合は防具着用だけど、直接どつき合うことに違いはない。勝ちにいく以上、それ相応の稽古はしてくれ。オマエは今からただの練習生じゃねえ、岡本道場の看板背負った選手の一人だ。とりあえず夏休みの残りは毎日道場に来てもらう」
「押忍」
「よし、じゃあ防具つけろ。スパーリングを始める」
「いきなり?」
「嫌ならやめてもいい。そのまま俺は充分に準備を積んできたという自信を持つことなく試合会場のマットに立てよ」
「ーやるよ」
 八月末日までの毎日、彼は本当に一日も欠かすことなく道場に通いました。二年経ってまたここでムラタくんにボコられる日が来るなんて思わなかった、そうぼやきながら足を引き摺って帰り、その翌日にはまたやって来て、鼻血を流し、時に吐きもしました。
 それでもケンシロウは音を上げませんでした。最初は冷やかすように僕らのスパーリングを眺めていた他の練習生たちも、いつしか一切の私語を交わすことなく倒され続ける彼に声援と助言を送るようになり、ケンシロウの脛が腫れあがった時には近くのコンビニまで走って氷を買ってくるようになりました。
 
 そして九月。町田での首都圏大会。
 まずは同級生の強張った背中を叩いて送り出しました。
「太鼓が鳴ったら、頭の中で描いていたコンビネーションなんぞ綺麗さっぱり忘れる。そこからは練習を重ねてきた技しか出ない。存分に全部出してこい」
「押忍」
 試合が始まった途端、ケンシロウは意外なぐらいのびのびと動き、途中上段蹴りを相手の顔面に当て、優勢に試合が進んでいることを確信した僕は、ラスト二十秒で叫びました。
「ケンシロウ、北斗神拳を出せ!」
 セコンドについていたジュンやオランゲも後に続きました。
「ケンシロウ、行け!カメハメ波だ!」
「それ違うだろ!」
 試合が終わり、主審がケンシロウの片手を持ち上げた時、僕らは腹を抱えて笑い転げていました。帰ってきた勝者は僕ら全員とハイタッチを交わしながら、マウスピースを外して両の拳を突き上げました。
 次に、黒帯クラスのトーナメントが始まりました。
 同級生の奮闘は、僕に自分が想像していた以上の勇気を与えてくれました。ここで自分が負けたら奴らに顔向けができない、という焦りはまるで、二年前に横浜の街中で他の中学の同類たちを殴り続けていた当時の自分の心境をそのまま複写したかのようでした。でもここは街中ではなく試合会場で、闘う相手はみんな敬意をもって拳を交わせる男たちで、そこに憎しみや怒りといった感情が介在する余地は微塵もありませんでした。
 無事優勝を果たし、全日本への出場資格を得た帰りの電車で、勝利者に配られたメダルを右手に強く握りしめ続けていたケンシロウに、僕は早口で伝えました。
「おめでとう。あと俺に力をくれたこと、ありがとう」
「礼を言うのはこっちの方だよ。今日ようやく、二年前からムラタくんに感じ続けていた負い目を捨てられた気がする」
 その日を境に、ケンシロウは急激に腕を上げていきました。ジュンとオランゲも密かに、師範に相談していたようです。
「奴らも次の大会に出るらしいぞ。タクミからも釘さしとけ。別に出場は構わないけどオマエら本当に受験勉強もしてるんだろうな?とな」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?