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中編小説「押忍」(72)

 整同館の有望株は真っすぐ近づいて来て、意地のようにパンチと蹴りの雨を降らせてきましたが、長年この体で受け続けてきた岡本師範の突き蹴りに比べれば、それは蚊に刺された程度のものでした。
 僕はコンビネーションもかなぐり捨て、フットワークもかなぐり捨て、ひたすら下段蹴りと胸板への突きを止めることなく出し続けました。
 おい二宮、加藤、オマエらも上等だよ。
 極北空手は相撲空手かよ、押し合うだけの低技術の空手かよ。
 俺はその空手を、七年間修業してきたんだよ。
 母さんが働いて払ってくれた月謝でな。
 そこで俺は岡本師範と出会い、今日まで鍛えられてきたんだよ。
 オマエらがバカにした、この旧態依然のケンカ空手でよ。
 加藤の声がはっきりと耳朶を打ちました。
「マサキ!距離取れ!オマエがその距離でムラタを押せる訳ないやろ!」
 ムラタだけじゃねえよ。額のぶつかる距離でどつき合って、オマエら「楽しい空手」の連中に、極北館の人間が負ける訳ねえだろ。
 今は天国にいるーいや、その生前の所業から判ずるに地獄かもー館長。この世で最強の格闘技は空手で、空手で最強の流派はキョクホク、でしたよね?
 当然じゃないですか。
 みぞおちに僕の突きを喰らったマサキの体が、くの字に曲がりました。
 母さん。人間がリミットを超えた精神状態の、周囲の動きがゆっくり見えることがあるという話を聞いたことがありますか。レーシングドライバーが事故を起こした瞬間、回転する車から広告看板の文字が全て読み取れ、タイヤがゆっくりと宙を舞うのを捉えることができたという話を、聞いたことがありますか。
 あれは本当ですね。
 膝を突きあげた瞬間、それが相手の頬骨を直撃するのがはっきりと予想できた僕は、ちょっと軌道修正してみたのです。
 膝はマサキの鼻骨を正面から襲いました。顔面の正中線を狙う。喧嘩の鉄則です。
 もんどり打って倒れ、鼻から夥しい血を流し、彼は担架で運ばれて行きました。
 場内のざわつきはしばらく収まらず、進行係が何度も「次の試合に進みます」とハンドマイクを手にしなければなりませんでした。
 
 マサキはさすがに「整同館のポスト加藤」でした。
 試合後、呼吸に違和感を覚えた僕は、会場の外に待機していた検診用バスでレントゲン撮影を行い、折れた肋骨が肺に突きささる寸前であったことを知りました。
 ドクターストップ、緊急入院。
 母さんがすい臓がんと診断され、母さんが死んだ、その同じ病院だったことに、不思議な因縁を感じました。

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