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中編小説「押忍」(50)

 高槻にある加藤の家に二泊お世話になり、夜は一緒に大会の動画を鑑賞し、整同館本部への三日間の出稽古を終え、僕は川崎に帰ってきました。
 翌朝、五時に起床し、十キロほど走りました。それは日課となって今日まで続いています。最初から無理したら体を痛めるという発想はありませんでした。最初から無理しなければ、体を痛める練習をしなければ、加藤とマトモな試合ができる自分を作り上げられるはずなどありません。
 師範と叔父の許可を得てー今の学業成績から落ちるようならこの取り決めの廃止に従う、という一筆も本当に添えてー寝袋を携えて金曜夜から横浜、関内の道場に寝泊まりするようにもなりました。
 
 それは七月の日曜のことでした。
 道場での稽古を終え、関内駅へと歩いている時、背中に僕の名を呼ぶ声が当たりました。すぐには誰か分かりましたが、なぜ自分にわざわざ声をかけてきたのかは理解できず、そんな僕の様子に相手は少し傷ついたようでした。「ジュンだよ」
「ー分かってるよ」
 喧嘩三昧だった中一の頃、僕の後ろをついて歩いていた連中の一人。本名は健太でしたが、当時付き合っていた女が三人連続してジュンコまたはジュンだったことでそう呼ばれていました。
「髪の色、戻したんだな」だから気付かなかった―そんな僕の言い訳が言葉となって発せられる前に、何も言うなとばかりに彼は手を振りました。
「色んな奴から目をつけられてさ。ムラタくんは何でここに?」
「稽古」
「まだ、ここで空手やってたんだ」
「これしか趣味もねえしな。じゃあ元気で」
 そして再び駅に向かう僕を、ジュンが追いかけてきました。
「ムラタくん、俺これからオランゲとケンシロウに会うんだけど」
 母さんが亡くなり、叔父に身柄を引き取られるように川崎に越した後、彼らの誰一人として連絡を取り合うことはありませんでした。ジュンに連れられてファミレスに入った僕は、だから白状すると、その時少し緊張していました。
 そこに先に来ていた二人も、それは同じだったのでしょう。かつて同じ時間と空間を長い間共有しながら、友達同士とは決して呼べなかった僕らの微妙な関係は、転校後一年にも満たない時間では濾過されるものは何もありませんでした。
 『同窓会』が始まってもしばらくはこれといった話題も見つからず、ジュンが意を決したように「まさかムラタくんが本当について来てくれるとは思わなかったよ」と口火をきった時、しかし彼の視線はテーブルの上に注がれたままでした。
「いや、誘ってもらって有難かったよ」
 本当に?とジュンが目を上げました。
「そう言ってくれるとは意外だよ。ムラタくん、俺たちには壁を作っていたから」
「んなことねえよ」
 気色ばった僕の声。同時に微かに揺れる、彼らの瞳。
 中一の時、毎日のように見ていた風景が、そこにまた戻ってくるようでした。
 これが俺という人間なんだ。
 ここにこれ以上留まる意味はない。
 立ち上がりかけた自分を、その時救ってくれたのはオランゲー英語の授業で「orange」をそう発音したーのひと言でした。

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