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中編小説「押忍」(64)

 二学期が始まり、夏休みの間寝泊まりしていた関内の道場を離れて川崎の叔父宅に戻っても、僕は月曜から木曜は勉学最優先としつつ、朝は十キロ走り、夕方は一時間だけ近くの寺への長い階段を駆け上り、境内でシャドーボクシングを行い、樫の木の枝で懸垂腹筋を繰り返すひとときを設けました。気乗りしない時は、大阪の整同館本部道場で加藤に殴られ続けた記憶を呼び覚まし、ジャージに着替えて外に出ました。
 紅葉深まる頃、孝子さんから長い手紙が届きました。その端正な字を目で追いながら、メールでもラインでもなく、自筆の手紙を送ってくる彼女の律儀さにしばし思いを馳せました。

『巧くん
 元気にしていますか。私もいよいよ来年五年生です。臨床実習が本格的に始まり、指の怪我はご法度なので、来年度からは道場にもあまり通えなくなりますが、五年生になれば今さえ懐かしく思える毎日が待っていると教授からも脅され、戦々恐々としています。
 研修に入っている癌病棟には、多くの末期ガン患者の方がいらっしゃいます。自分の命運を象徴するかのような帽子を被り、それでも私とすれ違う時に元気よく挨拶をしてくれる彼らの姿勢は、常に私の背筋をも伸ばしてくれます。彼らは自分たちの身をもって癌という病気と、その進行の経緯を私たちに教えてくれています。
 そして天国に召されていく患者さんの葬儀で賛美歌を歌うごとに、泣いている場合じゃない、クランケの皆様は自身のたった一つの命をもって私たちに症例を捧げてくれたのだ、と自らを叱咤しています。
 中途半端な気持ちを捨てて、香さんがそうであったように、私も自分の仕事に没頭し、他の何もかも全て犠牲にしても惜しくはないと心から信じられるほどに、この病気と向き合う決心でいます。
 さて、いきなり話は変わりますが、結婚することになりました。何だよ他の何もかもを犠牲にすると今書いたばかりじゃねえかよと口をとがらせる巧くんの顔が想像できます。一応言い訳をさせてもらうと、相手は癌病棟の先輩医師です。あ、授かり婚ではありませんよ(笑)医学部ってのは結構学生結婚率の高い世界なんです。
 彼は二年前から私にプロポーズしてくれていました。でもあなたもよく知っている通り、私は過去の経験から、特定の誰かを信用すること、特定の誰かと深い関係を結ぶこと、に強い恐怖と拒否感を持っていて、自分自身一生結婚することはないと思っていました。
 背中を押してくれたのは、香さんでした。
 昨年、二学期を迎えた巧くんが学校に行っている間、加奈さんと私が伊勢佐木町のご自宅を訪問させてもらっていた期間があったでしょう。名目は香さんの身の回りを世話するためだったけれど、ケアしてもらっていたのは実は私の方でした。
 あの時、私は毎日のようにお宅に伺い、無尽蔵にしゃべり続けていました。自分の過去、苦悩、こじれた親子関係、これからの夢。何もかも包み隠さず香さんに聞いてもらい、女三人での会話は楽しくて楽しくて、正直巧くんの帰りがもっと遅くてもいいのに、と思うぐらいだったの。プロポーズされていることも、相談した。

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